出張日記


2003年


10月3日

SASの984便で成田を午前11時45分発。コペンハーゲンに16時15分着。友人のJan(ヤン)が迎えに来てくれていた。
彼とはBrno Project以来の友人で2001年、11月にプラハで僕の個展をやったときにもいろいろと世話になった人物でそれ以来のつき合いである。その後Brno Projectの為プラハを訪れる度に彼とは会っていて最近は彼のアパートに泊めてくれる。アパートといっても彼が19世紀の石造建築の屋上部に設計したもので木造の吹抜空間を持った高級なものである。今回は私の妻が同伴。今回もJanのアパートに泊めてもらう。
Janはプラハ市内に4つ程アパートを持っている。一度泊めてもらったのはヴァーツラフ広場に面した便利な所。今回はいつも泊めてもらっている前述のビルの屋上にデザインしたものでモダンで快適である。
彼との出会いは私が1986年に丹下事務所を退所した後クウェートの設計事務所に勤務していた時友人となったスロバキア人のピーターを通じて。Janもクウェートで勤務していたが、残念ながら彼とはクウェートでは会わなかった。
彼はイラクのフセイン政権がクウェート侵攻した時にバクダッドに連れて行かれ長期間捕虜生活を行っている。ピーターも不思議な男でクウェートから家族(妻、子供三人)を連れてスイスに亡命している。現在はミュンヘンに住んでいて彼とは妙にウマが合う。
僕のヨーロッパ巡回展のきっかけはピーターがミュンヘンのギャラリーに僕を紹介してくれたことから始まっている。
先日はチューリヒで4時間トランジットタイムがあった時、奥さんのマリアとチューリヒまで来てくれ、夕食を共にした。
プラハの街へ着くとJanのアパートに荷物を置き、そのまま街へ出る。ヴァーツラフ広場から下ってプリコピエ通りを右に曲がる。この道はまっすぐに行くとスメタナホールで有名な市民劇場へ至る。途中左に折れてカロリウムの脇を抜け旧市街広場へ出る。さすがにこの時間でも多くの人々がいる。そこから旧市庁舎の脇を抜け、カレル橋に至り、王宮に向かう。妻はプラハが初めてなので、Janと奥さんが一所懸命ガイドを務めてくれる。王宮下のかつて映画「アマデウス」の舞台となった通りや、有名なシーンの場所を説明してくれる。
マルタ広場の近くのレストランでディナー。たまたま今日は妻の誕生日なので重いがけず誕生会になり、妻も感激。Janのアパートに戻ったのは午前1時過ぎ。相当に眠たい。
それもそのはずで日本はもう朝9時なのだ。


10月4日

起床後Jan夫妻が車で迎えに来る。彼の車でプラハ市内ツアー。午前中はプラハ城を見学。Jan夫妻が妻をプラハ城の案内をしている間に僕はパスして旧王宮前の広場を見る。



ここはプラハ城でも最も好きな場所だ。何故なら建築家プレチニクの作品がたくさん見られるからだ。まず王宮広場から旧王宮広場に下る階段及びそれを覆うポーチ。
このデザインは一見の価値あり。ここから三層分程下って行くのだが旧王朝から突き出した階段のデザインが良い。特に押さえた装飾とディテールは素晴らしい。途中の踊り場やニッチも面白い。踊り場を下から見上げるのもその美しい納まりが見られて楽しい。階段をくだり切ると左右にカウンターが置かれたようなランドスケープがまず現れる。そしてしばらく行くと円錐形のモニュメントを右手に歩いていくと列柱によって作られた四阿。更に進むと右手に不思議な形をした巨大な鼎のような石の彫刻が二つの台座の石に支えられて置かれている。
左の城壁の頂部に不思議なモニュメントを置いたパビリオンがある。更に進んでいくと美しい大きな階段が眼前に現れる。上り切った所がプラハ城正面の広場である。
階段途中の石の手摺やニッチ及びそこに置かれる彫刻は必見。この建築家はほかの国では見られない独特のセンスの良い造形、空間作りが特徴である。正面前の広場で待ち合わせ車に乗り、プリコピエ通りへ出る。ボヘミアングラスの最高級店モーゼルで妻がワイングラスを5ケ程購入する。Janに言わせるとここのガラス工芸はガラスのロールスロイスとのこと。そこから市民広場に行き、今夜のスメタナ・ホールのチケットを手に入れ、旧市庁舎広場付近で休憩。僕はいつものようにピルズナービール。現地の人はブッドバールと呼ぶ。このブッドバールがアメリカに行きバッドワイザーになったとのこと。昼食は郊外(といってもJanの車で時速160km位で一時間程走ったところ)のレストラン。ここは外国のVIPが来る程有名なレストランとのこと。シェフにいろいろとチェコ料理の話を聞いた後、ワインで遅い昼食。
その後村を散策し、Janの知り合いのBarへ入ると大歓迎された。そこではハムを焼いていて又食べさせられる。プラハに7時に戻り、スメタナ・ホールでコンサートを楽しむ。たまたま運良くチェコフィルの演奏でなんとドボルザークの「新世界」。妻のように初めてこの街を訪れた人には感動的。
コンサート終了後しばらく館内を見学。まだお腹が一杯なのでヴァーツラフ広場に面したグランカフェでお茶。その後Janの車でプラハのナイト・ツアー。


10月5日

起床後Jan夫妻に連れられて旧市街のカフェで朝食。その後ヴァーツラフ広場の本屋でプレチニクの作品集を購入する。空港に行く途中プレチニクの設計したコステラ教会を見学。



丁度日曜日でミサをやっていて内部に入れた。以前にも数回ここには来ているが内部へ入ったのは初めてで感激した。内部空間は想像していた以上に良かった。



天井のフラットな木造の格子がややもすれば派手なデザインになりがちな教会空間に抑制をきかせてむしろ落ち着いた雰囲気を作り出している。周囲の壁はレンガ造りで幅1m程の柱と同じ間隔の柱間のリセスメントが小気味よいリズムを生み出してこの空間に躍動感を与えている。祭壇もシンプルで好感が持てる。ミサの最中にも関わらず写真を撮っても周囲の人は嫌な顔一つ見せずにニコニコしながら道を空けてくれるのには感動。Jan夫妻や妻は車の中でおしゃべり。僕は二時間程かけて外部・内部の撮影。撮影終了と同時に空港へまっしぐら。Jan夫妻にお礼を述べて空港で別れ、コペンハーゲン経由でスウェーデンのイエテボリ空港へ。駅近くのホテルにチェック・イン後、市内見学。
明日はイエテボリ大学で講演。夕食は近くのチャイニーズで済ます。


10月6日

起床、朝食後、イエテボリ大学へ。 イエテボリ大学は他のヨーロッパの大学同様に様々な学部が市内のあちこちに分散している。タクシーの運転手が間違えて違う場所に行ってしまう。携帯でクリスティーナ・フリード教授を呼び出し道を聞き、歩いて目的地に向かう。クリスティーナ・フリード教授が外で待っていてくれた。
彼女に案内されて中に入り、教授の部屋に。お茶をご馳走になり、他の教授に紹介され、その後レクチュア・ルームへ。
レクチュアをスタート。後で聞いた話だが、現在このスクールはデザイン学部として一つにまとめられ、一年、二年時は全ての学科(建築、彫刻、テキスタイル、染色等々)を履修するとのこと。三年からそれぞれの専門に分かれる。そのため僕のレクチュアには様々な学科の人が来ていた。
日本の大学の1年、2年次の教養コースよりもこのように建築学科に進む者はもっと早い段階からアートに触れた方が良いと思われた。講演終了後他の教授も交え、近くのレストランで歓迎会。昼間からのワインを飲むと少々辛い。しかし彼らはさすがにヴァイキング。強い。昼食後、大学へ戻りクリスティーナ・フリード教授に学内を案内してもらう。大学の中央に大きな展示場があり、(もともとそこは中庭だった)それぞれの学科がそこを取り囲むように配列されている。それにしても様々なデザイン関係の学科が境界もなく同居している。様々な側面から感性が磨かれてうらやましい。 その後教授の案内でアスプルンド設計の三つの建物を見学。正面に美術館、左手に市立劇場、右手にコンサートホールとまるでニューヨークのリンカーン・センターを思わせる構成である。その後近くのバーでワインを飲みながら話し込んだ後、ホテルへ戻る。講演会にはたまたま日本人留学生が何人か来ていたがその人達とディナーの約束。希望を聞いたらやはり日本料理とのこと。 ホテルで彼らと待ち合わせ。その後日本レストランへ。夜遅くまでイエテボリ大学の話などを聞く。




10月7日

昨日知り合いになった日本人留学生に案内してもらい、イエテボリの裁判所建築を見学。アスプルンドの設計。これは良かった。もともと増築である。一昨日外観を見た時はどうってことはないと思ったが、内部は外部からは想像できない程豊かである。中央にアトリウムを持ち周囲に大中小のコートが三層に渡って配置されている。一階から二階へ上る階段、鉄骨で作られたエレベーター、アトリウム空間、周囲のプロムナード、ラウンジ、手摺のデザインなど北欧的洗練さに圧倒される。

同じ北欧のアアルトなどアスプルンドの裁判所を見てしまうと野暮に見える程だ。
特にアトリウムの空間、光の取り入れ方は素晴らしく、現代建築ではすっかりお目にかかれない建築だ。裁判所にも関わらず内部は基本的に見学、出入自由。撮影も人物を近くで取らない限りはOK。さすがにスカンジナビアン・デモクラシーだ。
途中被告人が手錠をつけたままアトリウム内を通り抜け法廷へ入っていく。カメラのフラッシュがたかれるがこれも一般にオープン。
午前中じっくりと楽しんだ後ヨーテボリ空港へ。コペンハーゲン経由でウィーンへ。午後5時にはウィーンに着き、ホテルチェックイン後アン・デア・ウィーン劇場へ。ミュージカル「エリザベート」を見るため。この劇場はベートーベンの唯一のオペラ「フィデリオ」とモーツアルトのオペラ「魔笛」が初演された由緒ある劇場である。僕はオペラ気違いと言われる程で今回もオペラに行きたかったけれども妻がミュージカル好きの為今回は妥協して付き合う。
ステファンプラッツからオペラ座を右手に見て通り過ぎ、突き当たりの地下鉄の地下広場に入っても良いが左手向こうにオットーワーグナーのカールスプラッツ駅を見ながら右手に回り込み、進んでいくとヨゼフ・オルブリッヒのゼツェッション館の前に出る。そこを更に下っていくとこの劇場に行くことができる。
ウィーンのエリザベートは東京よりもはるかに良かった。当たり前の話だがとにかく皆歌がうまい。特にルッキーニとエリザベート、トートの歌唱力は抜群。日本でも歌のうまい人はいるはずなのだが宝塚あたりの女優を安易に歌わせてしまうのでとにかく歌唱力がない。宝塚の音楽教育はどうなっているのだろう。マイクに頼りすぎるから声量がない。体全体から声が聞こえてこない。 ウィーンのエリザベートでよかったのは他に舞台。舞台がいくつかに割れ、斜め上下に動くのは驚き。結構楽しめた。10時半には終了。
ホテルへの帰途、タイレストランに立ち寄る。


10月8日

午前、オットーワーグナーの郵便貯金会館へ。ここはウィーンへ来る度に必ず立ち寄るようにしているのでもう十数回も来たことになる。晴れた日、雨の日、曇りの日、午前、午後、夕方、春夏秋冬によって天井のガラスを通して落ちてくる光は千差万別なのだ、最近は訪れる観光客も多いのでオットーワーグナーグッズが売られている。これらがなかなか良いのだ。アルミの表紙のスケッチブック。メモ帳、ワグナーデザインのガラスコップ等を買い込む。その後河べりに出て歩くとセンスの良いアンブレラショップを見つける。友人のみやげも含めて5本程買い込む。 午後は最近オープンしたミュージアム・コンプレックスへ。正面から入ると左右に新しい建築に出会う。特に暗色の石を貼った右側のミュージアムが面白かった。石の貼り方は雑なのだがかえってその雑さが素材とマッチしていて良かった。 夕方、余りにも冷えてきたのでBOSSコートを買い込む。明日はリトアニアまで行くのだ。夜は大学の後輩のナイルツ美也子さんと彼女のご子息と僕達の4人で、温室を改造し新しくできたレストランで夕食。ご子息はミチオ君というが完璧なバイリンガル。僕達とは普通に日本語を話しているが、waiterが来ると突然ドイツ語を話し出すのには少々驚き。やはり語学は幼少の時から身に付けるべき。このレストランは最近まで王宮内の植物の温室となっていたが最近レストランに改修したとのこと。天井も高く勿論全面ガラス貼りなので外から見る夜景も美しい。クリスタルパレス・レストランといったところ。


10月9日

起床後、予約したTaxiでAirportへ。コペンハーゲン経由でリトアニアのヴィルニウス空港へ。元駐日大使のカマイティスさんが迎えに来てくれていてラディソン・アストリアホテルへ直行。その後ヴィルニウス市内ツアー。
今回のリトアニア訪問の目的はリトアニア建築賞の審査の為。リトアニアは2004年からEUに参加する。それに合せて今後リトアニア建築賞を設け年一回表彰していこうというもの。対象はここ数年内に完成された建築。未完のものやプロジェクトは対象外である。
審査委員長はマッシミリアーノ・フクサス氏。彼の父親がリトアニアのカウナス市出身とのこと。
他にはオランダのドナルダス・ヴァン・ダンシカス氏、彼はコールハースのOMA事務所設立以来のパートナーで最近大学の教授に就任したとのこと。その他近隣諸国のバルト三国のエストニアからアンドレス・オジャリ氏、ラトヴィアからアンドリス・クロンベルグス氏、それに僕を加えての5名。町の中心部の地下駐車場が今回のための展覧会場になっているので下見に訪れる。一通り展示物を見て回るが予想外にデザインの傾向が新しい。もう既に西側ヨーロッパのデザインがすっかり浸透しているのだ。再び地上に出る。この辺り一帯は旧市街地で最近整備されたところ。
ヴィルニウスのシンボルでもある古い聖アンナ教会の軸線上に作られた通りでこの辺り一帯ヴィルニウス旧市街区として世界遺産にも指定されている。バルト三国は昨年の夏じっくりと回る機会があったが西側ヨーロッパに比べるとほとんど手付かずの状態で古き良き中世のヨーロッパががそのまま残っている。
エストニアのタリンもラトヴィアのリガも旧市街には建築的な見所が数多く存在する。その意味では手付かずのデザインの宝庫。これから西欧、中欧にもあきた日本の旅行マニアが多く訪れるに違いない。それにこの辺りは以外に旅行するには便利な所だ。タリンはヘルシンキから船で二時間程。(昨年僕はタリンに滞在した時スティーブン・ホールの美術館を見るために日帰りでヘルシンキまで往復したことがある。)
最近はヘルシンキとタリンは密接な関係にあり、ほとんど姉妹都市のような状態だ。タリシンキなどという言葉もあるくらい。タリンからラトヴィアのリガまではバスで4時間ほどだ。ホテルに7時半に戻り、カマイティスさんと待ち合わせて近くのリトアニア・レストランへ。さすがに元大使だけあって料理も美味しく、インテリアも良かった。実はカマイティスさんはもともと建築学科出身である。豪華なインテリアの割には値段もリーズナブルだった。


10月10日

朝食後、展覧会場へ。ここで初めて審査員全員が顔を揃える。フクサス氏と話したところ、三宅理一氏と親しいらしいとのこと。世の中は本当に狭い。
リトアニア側の担当者の司会で審査基準、全体の中から最優秀、優秀、佳作の点数などが示される。
まず全員で一点一点見て回る。その中で審査員の誰かが気になったものがあれば意見を述べる。そして全員で議論をする。そこで最終選考まで残すかどうかを決めて次に進むといった具合。



全体を一週すると9時からスタートしたのがもう正午。もう一度じっくり見て回る。フクサス氏やダンシカス氏、僕の見方はほとんど同じ印象だ。やはり新しさや新しい傾向の作品に目が行く。それに比べるとバルトの人々は保存や、オーソドックスな傾向を評価しているのが際立って面白かった。フクサスは「パンチが無い」とか「新しさが無い」などという言葉をよく用いる。オランダのダンシカス氏はパネルに書かれているコンセプトや文章をじっくりと読み込んでいるのが印象的だ。やはりOMA的だ。結局最終的には10点ほど選ばれ審査は終了。 相当疲れた。その後近くのレストランへランチへ。もう皆すっかりリラックスしてビールやワインを注文する。
昼食後は記者会見。テレビカメラが2台も出たほどだからこの賞及び審査は国家的イベントなのだろう。フクサス氏が司会を務めてしまう程精力的にしゃべる。それにしても彼のパワーには圧倒される。審査中も英語、フランス語、スペイン語、イタリア語の電話がひっきりなしに入ってくる。しかし審査中に感心したのは委員長の立場をよくわきまえていて自分の意見をごり押しすることは無かった。委員一人一人の意見をよく聞き入れながらまとめていくのには感心させられた。結局記者会見は一時間程で終わる。一人ホテルに戻り、19時から再び展覧会場で今度は受賞者の発表及び表彰式。
このイベントには数多くの建築家、学生、(それに後で聞いた所によると一般市民も)が参加し、会場は足の踏み場も無い程。



奥にステージが用意され、まず市長が挨拶。次に建築家協会会長がスピーチを行い、そして審査員の紹介。
そしていよいよ発表。審査員一人一人が代わる代わる受賞者を発表していく。そのたびに湧き上がる歓声。そしていよいよ最優秀の発表。発表と同時に受賞者がステージに飛ぶように上ってくる。彼の案は教会リノベーションだった。これは私も強く推薦したものだった。その後はワインによるパーティー。パーティーは深夜まで続いた。


10月11日

起床後レストランで審査員全員で朝食。その後マイクロバスに乗り込み市内の主だった建築ツアー。
途中、審査の対象にもなり受賞した橋があった。構造がダイナミックなデザイン。市内の主な建築、旧市街の教会や広場、大学などを見学の後、リトアニア建築家協会の建物に行く。会長の他にチェコのブルノからチェコ建築家協会副会長やポーランド建築家協会の元会長なども参加し遅い昼食会。このダイニング・ルームはかなりゴージャスなもの。家協会会館自身が古い建物を改造したもので、日本のJIAなどこれに比べれば実におそまつ。
2時間程ワインを飲みながら語り合う。ランチが終わると既に夕方。一旦ホテルに戻り休憩。歓迎ディナーはビルニウス市郊外の水車小屋を改造したレストラン。滝に面していて内部には水車の歯車や軸などが残されており、ランドスケープデザイナーのロバート・ザイオンのオフィスを連想した。建築家協会のスピーチの後、ダンスが行われたりとなかなかとにぎやか。
僕はエストニアとラトヴィアからの二人と話しこむ。エストニアはルイス・カーンの故郷。生まれて幼いときにカーンの両親は彼を連れてアメリカに移住。しかしカーンがユダヤ人であったため、故郷には作品を残していないとのこと。
ラトヴィア出身の建築家ではグンナー・バーカーツがいる。事実首都リガには彼の設計した戦争記念館が現存している。エストニア、ラトヴィア、リトアニアのバルト三国は2004年のEU参加を機に大きく変わろうとしている。かつてのロシアの影響から出来るだけ抜け出すのが当面の目標のようだ。エストニアはその地理上北欧諸国と積極的に関係を持とうとしている。歴史的にも地理的にもエストニアは北欧諸国と特にフィンランドと強い関係があった。タリンとヘルシンキはフェリーで2時間の距離で隣町の感覚でタリシンキなどとも冗談で呼ばれる。建築家も積極的に西側から招き、盛んに西側のデザインを吸収しようという意欲が感じられる。数年前には妹島さんもタリンに来たとのこと。彼女の講演会は評判が良かったようだ。
一方ラトヴィアもかつてのハンザ同盟の縁からドイツなどを中心にした西側と関係を結ぼうとしているようだ。
二人から是非講演をしてくれるようにと依頼されてしまった。日本に関してはまだ十分に認知されていないようだ。あくまでもはるか東方の国。中国の一省位にしか思わない人も多いと聞く。これは東欧全般に言えることでソ連時代西側の情報を全く与えられていなかったのであるから止むを得まい。
昨日のパーティーでのことだがある女性建築家が私に話しかけてきた。「私のひいおじいさんは日本海に眠っている。」と。最初何のことだかさっぱり見当もつかなかったが、分ったことは彼女のひいおじいさんはかつての無敵艦隊のバルチック艦隊の乗組員だったことだ。考えてみれば当然のことでバルト海を本拠地にしていた艦隊にはロシア人ばかりではなくバルト三国からも召集されていたのだ。僕は返す言葉もなく、「We are sorry」と一言。彼女は「私のひいおじいさんが貴方にひき会わせてくれたのです。」と言い、「ですから私は日本に親近感を感じています。」と続けた。
この水車小屋のパーティーは深夜まで続いた。10月初旬とは言え、吐く息が白くなるほどだった。


10月12日

起床後ホテルのレストランで全員で朝食。その後マイクロバスに乗り、今日は一路カウナスへ。カウナスは昨年の8月、7人の建築家が参加してワークショップ、展覧会、レクチュアを行った所、我々は「Seven Samurais」などと地元のマスコミに紹介された。そんな訳でカウナスに行くのは一年二ヶ月ぶり。カウナスまでは車で二時間程の距離だ。
途中トラカイ城に立ち寄る。
ここは昨年も来た所で大きな湖の中央にこの城がある。城の内部は博物館になっている。大きな中庭を中心に周囲を三層程の建物が取り囲む構成になっている。昨年は半袖で良い程の気候だったがもう厚手のコートが必要な程寒い。湖畔のレストランで簡単な昼食。リトアニアの伝統料理であるキビナイを注文して食べる。これはひき肉を包み込んだ揚げパンのようなもの。
昼食後一気にカウナス市内へ。カウナス市内の審査対象となった建物を見て回る。最優秀賞を受賞したものもカウナスにあった。
その後、私達はカマイティスさん父子の車に分乗し、他の審査員と別れ、「スギハラ・ハウス」へ。このスギハラ・ハウスは日本のシンドラーと呼ばれた杉原千畝氏が日本領事としてとして勤務した所。



彼は、このカウナスにあった日本領事館(ヴィルニウスは当時ソ連に占領されていたのだ)にビザを求めて押しかけた、ドイツに追われたユダヤ人に日本本国の禁止命令に背きビザを発行し、6,000人のユダヤ人の命を救ったと言われる。
建物は現存するが外部の損傷はひどく至急の手当てを必要とする。日本の外務省は戦時中の反逆行為に対してまだ杉原氏には距離を置いていると言われている。その為十分な修復も為されていない。一方リトアニアでは国家名誉市民が与えられ、カウナスにはスギハラ通りがある程である。これは何とかしなくてはならない。スギハラハウスの館長に歓待され、二時間程話す。通常は公開されていないかつての旧住居部も案内してもらう。特に3階の損傷がひどいようだ。
その後夕方遅く他の審査員達と合流し、ディナー。
会場はビール工場を改修したレストランでいまでもビールを作っていて出来たてのビールが楽しめる。カウナスの建築家が参加してディナー。
それにしても不思議なことはバルト三国の人達は他の東欧諸国の人々に比べて英語が達者なことだ。ワルシャワ、プラハ、ブルノ、ブラティスラバ、ブダペスト、それらのどの都市に比べても一般に英語を話す人は多いようだ。この点を聞くとバルト三国はいずれも小国で交易なしにはやっていけない。その為歴史的に外国語に対する情熱が強いようだ。
カウナスの建築家の何人かとは昨年のシンポジウム以来顔馴染。カウナスの将来、リトアニアの将来、EUの将来などについて話し込む。彼らの本音は面白かった。岡倉天心ではないが「Europe is not one」。ヨーロッパの各国は民族も宗教も歴史も文化もそれぞれ異なる。しかし衰退するヨーロッパが生き残る唯一の方法はEUに依存することだ。
様々な話をしているともう12時近く。迎えの車でビルニウスに向かう。


10月13日

起床後レストランへ。エストニア、ラトヴィアの建築家は早朝のバスで帰国したとのこと。午前中はヴィルニウス市内を散策。商店街の方を歩いてみる。やはり網目のように入り組んだ路地がいい。これはタリンにもリガにもカウナスにも言えることだが、道路にヒエラルキーが無いのが良い。全ての細い路地が網目のようにはり巡らされた都市は慣れないと自分を見失うことになるが、慣れてしまえば問題はない。
12時にカマイティスさんがホテルに来る。僕達を空港まで送ってくれる。空港でカマイティスさんと再会を約し、飛行機に乗る。目的地はコペンハーゲン。ラウンジで例によってFAXを流したり、コピーを取ったりといつものようにバタバタと動き回り妻に笑われる。
午後2時初の飛行機SAS983便で東京へ向かう。


10月14日

朝8時成田空港着。空港からの帰途大学へ立ち寄る。たまった書類などを整理すること二時間。その後事務所へ行き、仕事の打合せ。

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