出張日記


2004年


3月24日

成田を11時25分発オーストリア航空でウィーンへ。そのまま乗り継いでロンドンへ。今回の出張はロンドンのAAスクールでのレクチュアとシリアのダマスカスへプロジェクトの打合せ。そのあい間にオペラ鑑賞といったスケジュール。今回は妻と次男、いとこの本田禎子さんが同行。ロンドンには午後6時半着
ロンドンのホテルにチェック・イン後そのままAAスクールに直行。ホテルからは歩いて10分の距離。今夜はWelcome Partyが開かれている。
AAスクールに着き、地下のホールへ行くとPartyは盛り上がっていた。
ケン・ヤンは既に到着していた。今回のレクチュアはケン・ヤンが学長のモーセン・ムスタファビと企画したASIAN ARCHITECTS "GROUND PLANE"というシンポジウムで行うもの。会場は足の踏場もないくらいに混雑していた。
モーセンに会う。彼とは台湾、東京、クアラルンプールと様々な場所で会っている。
今回の、僕のレクチュアのタイトルは「Edo Horizontal」。これはGround Planeを受けてのこと。
現代東京は高層プロジェクトが進んでいる。確かに高層は都市に於いては必要とされる建築に違いないが、一方で僕達は足元の地上の空間をおろそかにしていないか。それに高層もケースバイケースで場合によっては同じプロジェクトでも中層や低層の方が良い場合もある。超高層ビルの足元ほど退屈な場所はない。
江戸の特に下町は極めて良く計画されていて、都市の循環システムや、都市空間、路地、長屋の住居システムなど現代においても学ぶべきことが多くある。それらを今回発表する。
その「Edo Horizontal」を受けてAAスクールOBの田島則行、納村信之、二宮博、寺田尚樹君達がモTokyo Horizontalモというタイトルで現代の東京に於いての水平開発の可能性、提案を発展するというもの。このプレゼンテーションの為、パンフとCD-ROMを各200部程用意し、当日配布。今回のSymposiumには田島、納村の両君が参加。二人とも既に到着していた。
アジアから来ている建築家の多くは顔馴染み。しばらくの間ワインで多くの人と談笑。終わった後近くのPubへ繰り出す。古市、田島、納村の他にAAで教鞭をとっている江頭さんを交え遅くまでAAスクールの教育法や現代の英国建築の動向などを話し込む。


3月25日

ホテルで朝食後、AAスクールへ。家族、本田さん達はロンドンツアーへ。AAスクールのシンポジウムは型どおりのオープニングの後、各レクチュアスタート。
Lunch後、田島、納村両君とLondon市内のNew Projects Tourへ。ロンドンブリッジを渡った後、N.フォスターの最新作シティホールを見学。運良く親切なガードマンのおかげで会議場内部まで見学できた。フォスターにしては異色に見えた。High-techスタイルというよりは表現の強い建築に思われた。内部の流れるような空間はダイナミックである。テームズ河をはさみ、ガラス越し正面に見える彼のデザインの話題の30セント・メリー・アクスとの対比も面白かった。
その後、テートギャラリーへ。この建築は既に何回か見ているのだが今、ドナルド・ジャッドとブランクーシの展覧会が開かれているのでそれを見るのが目的。それにしてもドナルド・ジャッドとブランクーシが同時に行われるというのはさすがだ。これは見応えがあった。両方とも良かった。ブランクーシの彫刻では初めて見るものもあった。その後、フォスターの30セント・メリー・アクスを建学。 AAスクールに戻り、田島、納村両君にAAスクール内部をくまなく案内してもらう。キャンパスではなくビルの中に全てが詰まっている学校というのもユニーク。それにしても学生は皆自由に建築の学習を楽しんでいる。
驚いたのはBook shop。九鬼周造の「いきの構造」"The structure of Iki"が高く積まれていたこと。谷崎の陰影礼賛もそうだがヨーロッパの人の方が日本の文化を学習しているように思える。私達の持つ、日本の文化の多くが世界に発進できるものだ。「Zen」と言っただけで欧米の人達は目を輝かす。しかし残念ながら日本の建築家は概して欧米の建築の流行を追い求める傾向が強いようだ。安藤さんがあれだけ海外で評価されているのは「日本」が前面に出ているからだろう。
AAスクールを一巡した後、学長のモーセンの招待でディナーパーティー。各国の建築事情を話しあう。モーセンが本年の7月からコーネル大のDeanになることを知る。パーティーをそこそこに、田島君の奥さんの実家でパーティーに招かれる。ミドルクラスとのことだが、日本の住宅事情に比べるとはるかに良いのは周知の通り。Arupの小栗さんに随分と久し振りに出会う。また、池原研究室の後輩にあたる星野拓郎氏に初めて会う。彼はEast London大学で教えているとのことで英国人の奥さんを紹介される。あまり日本にも帰国していない様子で、日本語を話すことにもどかしさを感じているように見えた。田島君夫妻の友人関係が中心だと思うが実に様々な日本人がロンドンには居る。パリもシンガポールもニューヨークも同様である。


3月26日

午前中僕らのレクチュアを行う。多くの人々が「良かった」と言ってくれたので一安心。
ランチをAAで済ました後、ホテルで家族と落ち合いショッピングに出る。家族サービスのため典型的な観光ルートのピカデリーサーカスからサージェントストリートを回る。僕がこのリージェントストリート付近で立ち寄るのは決まっていて、靴の「church」、「Dunhill」、スペインが本店の「Adolfo Domminguez」。特にAdolfo Domminguezはお気に入りでマドリッドでもバルセロナでも行くと必ず上下スーツは3〜4着。シャツ、ズボン等もそれぞれ5〜6ピースは買う。安くてデザインが好きだ。パリでもロンドンでも必ず立ち寄る。
その後チャイナ・タウンで夕食。今夜はAAで大パーティーとのこと。(課題提出が終わったので)是非とも出席したかったのだが断念。


3月27日

終日家族にロンドンの案内。セント・ポール寺院地下のサー・クリストファー・レンの墓にもうでる。
夜ロンドンからウィーンへ。ウィーンのホテルに着いたのは深夜の11時半。このホテルは常宿にしていてウィーンでは必ずと言っていい程ここに泊る。以前チェコのブルノで仕事をしていた時もここを常宿にしていた。ブルノはミースのチューゲンハット邸があることでも有名な古都。かつてのチェコスロバキアはボヘミア、モラビア、スロバキアの三国から成っていた。ボヘミアはプラハを中心とする西部。モラビアはボヘミアとスロバキアにはさまれた地域。でその都がブルノ。ボヘミアがピルゼンを代表とするビールの名産地なら、モラビアはオーストリア北方にあり、ワインが有名。かつてブルノに通っていた頃東京からウィーンに午後4時に着き、更に車でブルノに午後7時くらいに着くと(ホテル、スラヴィアが常宿)、まず近くのビールバーに行くのが習慣であった。モラビアはワインの産地といってもさすがにチェコに属するだけにビールは旨い。いつも僕が飲むのはピルズナーの生。これは思い出しただけでも生唾ものである。


3月28日


朝食後ウィーンからダマスカスへ飛ぶ。ダマスカス空港に着いたのは午後2時半。午後4時にはダマスカス市内のホテル・スルタンに着く。このホテルは安いがなかなか快適。考古学者の赤澤先生に紹介されたもの。
現地に留学している飯野りささんに案内されて、すぐにプロジェクトの現場へ。今回のプロジェクトはアサド・パシャという由緒ある大きなキャラバン・サライを改修し、日本の援助で中近東で初めての考古学博物館を作るというもの。このアサド・パシャはダマスカスの旧市街の中でも最も大きく最も良く保存されたもの。場所はウマイヤド・モスク前の広場から横丁に入ったスークをしばらく行った所。



スークに面したエントランス正面は明らかに周囲のバザールとは異なっている。ファサード正面に大きなアーチがあけられ、その上部や周囲には豪華なアラベスク彫刻が施されている。
内部へ足を踏みいれた瞬間、思わずうなってしまう程中庭を中心とした空間に魅了されてしまう。



全体は正方形のプランで中央に4本の柱を持った中庭の中央部には円形の穴があいている。田の字プランの中庭(3スパン×3スパン:計9ヶの正方形から成る)の中央を除いた8ヶの中庭上部の正方形の中央には円形のドームが乗っていて圧倒的な迫力を持つ。



2階には回廊が中庭を取り囲み、回廊にそってかつての寝室が並ぶ。これらの寝室及び十分に広い回廊空間を将来の展示室にする。ここを管理する女性の建築家や電気技師と打ち合わせた後、建物の調査・撮影。装飾も過剰ではなく美しいキャラバンサライだ。屋上に上るとダマスの旧市街が見渡せる。真正面にウマイヤド・モスクが大きな塊となって周囲を支配している。



夜になるのをまって照明のチェックをする。
中央の4本柱につけられた照明は直接目に入ってしまいまぶしすぎる。周囲の壁を照らす間接照明は良かった。調査を終えた後、ウマイヤド・モスクの内部を見学。夜の照明が大変美しい。



その後、飯野さんの案内でレストラン「カサ・ブランカ」へ。インテリアは完全にアラブ調なのだが、料理はアラブと西洋のミックスという不思議なレストラン。飯野さんに勧められて豆のスープを注文する。これは美味。その他ケバブなどのおきまりのコース。野菜がとても美味しい。さすがに肥沃な三日月地帯というだけのことはある。
タクシーでホテルに戻る。ホテルはダマスカス駅のすぐ近くにあるのに気づく。かつてダマスカスに来た時この駅はオープンしていたはずなのだが今は使用していなく、しかも再開発なのか駅から伸びる鉄道は撤去され、掘り返されて工事が行われていた。
家族達は、今宵はウイーン国立劇場でオペラ「エレクトラ」を鑑賞しているはずだ。本来なら僕も見るべく予約していたのだが、ダマスカスの出張が入った為断念。ウィーンに来てオペラを見ないとは残念。チケットを無駄にしてしまうのがもったいないので大学の建築学科の後輩のナイルツ美也子さんに僕の代わりに行ってもらう。美也子さんはウィーンの建築家と結婚し、ウィーン在住。美人で才媛。突然代わりに行ってもらうことになったが楽しんでくれるとよいのだが。


3月29日

起床10時。
国立博物館へ打ち合わせに。建築局長、考古学局長、考古学局総裁とそれぞれ面会。飯野さんの段取りの良さと、考古学局の秘書NADAさんの、行動力の良さで全く待ち時間なしでとんとんと三者別々に打ち合わせができる。これは極めて異例のことだ。僕もアラブでは随分と長い間色々な国で仕事をしたものだがこんなことは当時は予想だにできなかった。かつてアラブの国々で1977年から1980年代初めまで仕事をしたが、約束時間に対してルーズで、当初はいい加減うんざりしたものだった。ひどいときには半日waiting roomで待たされたりしたものだった。
当時在留邦人の間でよく冗談でA-Z五箇条などが言われたりもした。いわく「あせらず」「あわてず」「頭に来ず」「あきらめず」「あてにせず」これらが全てAではじまりZで終わるのでA-Z五箇条と呼ばれていた。
NADAさんの頭の回転の良さは特筆ものでちょっとトラブルがあると即座に臨機応変に対処法をフレキシブルに変えていく。後で聞いたのだがNADAさんはアルメニア人とのこと。納得。レバノンから中東には歴史的にアルメニア人が多く、しかも彼らは活躍している。出稼ぎというよりは定着している者が多い。エルサレムのゴルゴダの丘に行くとアルメニア教会が一角を占めている位だから昔からアルメニアの人達は外にでかけて活動していたのだろう。アルメニア人の名前の特徴は名前の最後に―ianが付く。ハチャトゥリアンなど。フランスのシャンソン界のスーパースター・アズナブールも実はアルメニア人。それをずっと隠していたのだが1980年頃に自らの出生を打ち明け、その直後のコンサートが大成功を納め、彼は伝説の人となったのは記憶に新しい。
このように外に出て活動する民族は多い。ユダヤ人がその代表だが、華僑、客下(ハッカ)インド人(彼らはアフリカ西海岸でビジネスを牛耳っているのだ)などなど。それに比べると我等日本人は本当にdomesticで帰巣本能が強い民族と言われる。
話はさておきこのNADAさんのおかげで普段は撮影禁止の国立博物館内をくまなく撮影することができた。後のアザン・パシャの考古学博物館のプロジェクトに参考にするためである。 その後門を出てゲートの隣のカフェでアラビアコーヒーを飲んだ後、アザン・パシャへ再び行き調査。その後アラビアコーヒーをスーク(市場)で買いホテルへ戻り、荷物を梱包してそのまま空港へ。
午後4時30分発のオーストリア航空の飛行機でウィーンへ戻る。ダマスカスからウィーンまでの飛行時間は3時間。1時間の時差がある。
家族達はミュージカル「エリザベート」を見に行っているのでホテル到着後、日本料理「天満屋」へ行く。夕食後ホテルへ戻り、ダマスカスで集めた資料の整理、11時過ぎ家族達が帰ってくる。


3月30日

起床後、朝食。このホテルの朝食は、シンプルだが食べやすい。
予約していたタクシーが10時に迎えに来る。タクシーがベンツなのはそれ程珍しいことではないが、運転手が粋でシュトラウスのウインナ・ワルツをBGMで流している。「美しき青きドナウ」「ウィーンの森の物語」などに続き、なんと空港に着く頃には「ラデツキー行進曲」である。これはまるでニューイヤーコンサートじゃないかと思える程だ。
家族は空港内でショッピング。僕は空港内のラウンジで東京へのFAXをしたため送る。午後14時発。


3月31日

午前8時45分成田着。


4月1日

時差ぼけながら午後4時から10時まで新国立劇場でオペラ「神々の黄昏」を鑑賞。休憩時間を含めるといっても6時間。面白かったのだがさすがに疲れた。

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