出張日記


2004年


7月6日

午前中は石神井公園の住宅計画の打合せ。午後大学で授業、17:30終了と同時に駐車場に待たせてあった事務所の車で成田空港に直行。学生諸君ががんばってくれたおかげでハノイのオフィス・タワーのオルタナティブ2案の模型、10部のレポートも僕の出発に合わせて間に合わせてくれた。感謝。

成田には18:10に到着。そのままチェックイン。19:10成田発。SQ(シンガポール航空)は随分と久し振りだ。今回は施主の招待でビジネスクラス。SQのビジネスクラスは世界でもNo.1だ。とにかく椅子の前後の距離、シートの幅、しかも椅子がスライドし、ほとんど水平に近くなり全身を横たえて伸ばせるのでぐっすりと眠れる。乗務員のマナーはダントツである。ANAやJALはSQに比べると最低である。ANAやJALのビジネスには高い金を出して乗る気には到底なれない。
シンガポールには午前1時着。空港には韓国のハンさんが出迎えてくれる。彼はシンガポール在25年。国立ソウル大学の建築学科卒業後、韓国のサンヤン建設に入り、アイ・エム・ペイ設計のシンガポール・ラッフルズ・タワー・コンプレックスの工事を担当し、そのままシンガポールに残った。
僕が中国の瀋陽で知り合ったヤン・ユーンジャエ元ソウル国立大学の教授とは親友でハンさんが彼の研究室を訪ねたところ、そこで僕の写真を見て驚いたとのこと。世界は狭い。
彼とは1993年にハノイ、ウエストレー・コンドミニアムを一緒に仕事をして以来10年ぶりの出会い。タクシーでホテルに行き、近くの野外バーでビールを飲む。シンガポールは2年前にスリランカに行く途中立ち寄って以来だ。これから進めるハノイ・プロジェクトに関して話し込む。



7月7日

8時に起床。ホテルのレストランで朝食。シンガポールといい、マレーシアといい朝食に限って言えば東南アジアの国にホテルに勝るところは世界広しと言えどもない。
もう20数年この朝食は本当に嬉しい。まずおかゆ。ややごま油を注ぎ、具をかける。具の豊富なこと。様々な野菜と味噌、醤油漬け。それにピータン豆腐。これは欠かせない。それに果物。ドリアンはホテルなので流石に出ない。(あまりにも臭い。しかも便所の臭い。それでもKing of Fruits。そのためタクシーにもホテルにも持ち込みは禁止である。あまりにも精力が付きすぎるのでこれを食べたら酒を飲んでもいけないし、風呂に入ってもいけない。)しかしドリアンが無くともメロン、西瓜、マンゴースチン、スターフルーツ等々の果物はとにかくうまい。
10時半のハノイ行きのフライトに乗るべく空港に向かう。ハノイまでは3時間のフライト。ハノイは10年振りだ。なつかしい。かつてウエストレーク・コンドミニアムの仕事で30回近くは通ったろうか。 空港から市内にはかつて一時間以上もかかったものだが新しいハイウェーが出来ていて約30分程。しかしハイウェーからの景色はかつてののどかな田園風景はない。
ホテルはプルマン・ソフィテルホテル。かつて常宿にしていた所だ。新館が出来ていた。
マネージャーが僕を覚えていたのには感激。荷物を部屋に置いて、近くのホーハンキエムの回りを歩く。とにかく暑い。しかし気持ちの良い暑さだ。東京のような人工的な暑さではなく、自然の熱さだ。しばらく市内を歩き回った後ホテルへ戻りシャワー。
今回の仕事はオフィス・タワー。(25階建て、高さ100m、延床25,000・)と幾つかのメンバーズクラブを含んだ下屋である。東京から持ってきた図面一式、レポート10部、模型をマダム・ゴーさんの息子スタンリーの事務所へ持ち込み明日のプレゼンテーションの予行演習を時間を計りながら行う。納得するまで4回程リハーサルを本番さながらに行う。経営アドバイザーのドクター・リムも同席。 各自が意見を出しながらシナリオを作成していく。
この辺の華僑のやり方は徹底して、相手のあらゆる攻撃、つっ込みを想定しながら行う。その後敷地を訪問し、調査を行う。ビデオとデジカメで十分なデータを集める。その後ホテルに戻りホテルの新館の1階のベトナム料理レストランで食事。ホテルなのであまり期待はしなかったがこれがなかなかいける。ネムもスープもヌックマムが効いていておいしい。(日本のベトナム料理はヌックマムが足りないので物足りない。)ベトナム・ビールの333(バー、バー、バー)も健在である。かつてよく通ったフエ通りのレストラン202に比べるとソフィストケートされているが野性味が減った気がする。フォーガー(チキンうどん)はダメ。
夕食後マダム・ゴーは部屋に戻るが僕とハンさんはホテルのロビーで遅くまで飲む。
今回のプロジェクトのクライアントはベトナム政府系の銀行とシンガポールのディベロッパー、Wells Holdingsである。Wells Holdingsのオーナー、マダム・ゴーさんとはウエストレーク以来10年以上の付き合いで、彼女が日本に来ると食事をする仲である。



7月8日

午前9:00にクライアントである銀行の総裁室に行く。
相手は総裁、各ディレクターなど10人。
こちらはマダム・ゴーに僕とドクター・リム、ハンさん、スタンリー及びスタンリーの奥さん(ベトナム人)が通訳として出席。予定通りプレゼンテーションを始める。各個人のキャリアも紹介される。やがて僕のプレゼンテーション。30分行う。やはり模型の効果は絶大である。総裁が模型の所へ来て様々な意見を述べるが、基本的な考え方は了承される。華僑は日本人に比べるとプレゼが巧い。決して相手の気をそらせない。それに比べると日本人はくそ真面目で相手を眠たくさせてしまうのだ。
12:00に終わる。



一旦ホテルに戻る。ハンさんと昔よく通ったチャン・フン・ダオ通りのフォーガーに行く。昔は薄汚れて暗くてくそ暑かったが、今は冷房も効いてインテリアもきれいになっていた。しかしまずくて食えたものではない。かつてはあんなに美味しくて2杯もお替りをしたこともあった。聞けば在留邦人が次々と訪れ儲かってしまった結果らしい。僕も在留邦人には教えるべきではなかった。
ホテルに戻り、荷物をまとめチェック・アウト。その後かつて僕が設計したウエストレーク・コンドミニアムを訪ねる。フロアの梁はかつて白かったのが下品な茶色に塗られていてがっかり。しかしメンテナンスは良いようだ。プールはそのまま。その後、かつてのハノイ・ヒルトン(刑務所)跡に建ったハノイタワーを見学。これは基本設計をやったのだが随分と変わっていた。そのままハノイ空港に直行。今日はシンガポール航空が週で唯一飛ばない日なのでベトナム航空。16:50発。ビジネスクラスにしてはお粗末。20:30シンガポール空港着。ラウンジでハノイでの打合せのminutes(議事録)を作成。23:30発のシンガポール航空東京行きに乗る。機内ではゆっくり眠ろうと考えていたのだが、・・・・たまたまさだまさしさん原作の映画「解夏」を見てしまう。さださんとはナガサキ・ピースミュージアム以来の知り合いで、いつか見たいと思っていた映画なのでラッキー。映画の中にピースミュージアムがシーンとして出てくる。



7月9日

朝7:30成田着。スタッフの土屋が迎えに来ている。
明後日ダマスカスでのプレゼンテーションで使う、模型、レポート、図面を空港で受け取る。模型ボックスがあまりにもデカいので空港で土屋に二つに分けてもらう。ウィーンでは二泊するので少し厚手のジャケット、ズボンを持ってきてもらう。
そのまま10:30発のオーストリア航空ウィーン行きに乗る。
このオーストリア航空でウィーンにはどれ程乗ったことだろうか。チェコのブルノ・プロジェクトのために三週間に一度乗った状態が半年程続いた。ブルノはミース・ファン・デル・ローエのチューゲンハットハウスがある。ウィーンから車で二時間ほどの距離なのである。
チェコはもともとボヘミアとモラビアの二つの国から成る。ボヘミアのかつての首都がプラハで、モラビアのそれはブルノであった。モラビアはワインが有名である。モラビアはボヘミアとスロバキアに挟まれた位置にある。
16:00にウィーン空港着。ダマス用の梱包荷物を空港の荷物預り所に預け、次にダマス往復、東京への座席を予約し、両替をする。機内でスケッチした石神井公園のスケッチをFAXで東京へ送り、タクシーでホテルに着いたのは18:00。このホテルは常宿である。今年ここに泊まるのはこれが4回目。ホテルのスタッフも顔馴染である。オペラ・ハウスも近いし、ムジーク、フェライン、ステファンプラーツも近い一等地。アドルフ・ロースのアメリカンバーと同じビルにあるそれに安くて居心地は最高。さすがにハノイから30時間程乗り継いできたので18:30には眠りに入ってしまう。



7月10日

ジェットラッグのため、さすがに朝4:30に目覚める。それでも10時間眠ったことになる。ベトナムからの汗を風呂に入り洗い流す。荷物を片付け、東京に電話をし、昨日送ったFAXの確認。8:15にウィーンの建築家Georg Driendle氏が迎えに来る。今日は彼がデザインした住宅4件とオフィスビルを彼に案内してもらうのだ。彼の作品は最近GA HOUSEに三つ程紹介され、その内一つは表紙にも載っている(GA HOUSE 78)ので知っている人も多いと思われる。(尚GA HOUSE 82の表紙にもなっている)
彼の車でホテルを出発。彼は1956年生まれの48歳。チロル地方のインスブルグ出身でウィーンのアカデミー・オブ・アーツの出。その後ウィーンを中心に活動している。
まずウィーンの北西郊外、デブリンクにある「SOLAR TUBE」(GA HOUSE 76)をを見に行く。デブリンクは大半が一戸建て住宅が並ぶ豊かな地区である。敷地は間口は狭いが(それでも18mもある)奥が深く、しかも奥に行くに従って上りの傾斜面になっている。回りは豊かな緑に囲まれている。外観は四角いボリュームにチューブをのせたようになっている。断面で言えば2階が斜面に連続し、1階は道路には開いている。丁度斜面に埋まったようになっている。
1階はもとのオーナーが医師であったためにその診療室になっていて、2階はいわゆるリビング・ダイニング。南の斜面側も北側も完全にガラスになっていて開放的である。3階は南と北側にそれぞれ個室2つがシンメトリーに置かれ、中央は大きな吹抜になっている。吹抜中央にスラブが吊られていてそこを中心に各部屋はつながれている。西側にバス、トイレが作られていて、吊られたスラブとの間に下からの階段がはめ込まれている。この空間は写真で見るよりははるかに豊かであるし新しい。
東側の吹抜には二層分の水平移動式の本棚がパンチングメタルで作られている。オーナー 夫妻にお茶菓子をごちそうになる。
二軒目は14区にある「SOLAR DECK」(GA HOUSE 78 )である。14区は典型的郊外エリアである。中流の人達の住宅が中心でこの「SOLAR DECK」の敷地も小さい。(といっても日本の都市の住居に比べたらはるかに広い)延床は290・程である。全体で三層構成で地下があり、特徴的なのは最上階がリビング・ダイニングで個室は全て一階に置かれている。Driendle氏の住宅の大きな特徴である吹抜け空間がそこかしこに巧みにちりばめられている。玄関は一階よりも半階程レベルが下がって前面道路に面している。そのレベル差を利用しうまく空間を作り上げている。そこから突き当たりの階段に出る。更に上部のリビングへ連なる吹抜空間の構成は圧倒的である。吹抜空間にバスルームが半透明のガラスに囲まれて作られているが、上部は屋根がない。 構造は鉄骨で全体のフレームを作り、周囲にテラスを設けているがリビングはテラスに面している側が全て全面ガラスになっているのでリビングと外部のテラスがうまく連続している。しかも、そのガラス引き戸は巨大で引いてしまうと完全に内部空間は外部に開放される。
ここでも様々な素材の用い方は巧みでそれらの素材が豊かな表情を作り出している。
三軒目は僕が最も見たいと思っていた「SOLAR BOX」(GA HOUSE 78 )である。
敷地に着いたのだがあのGA HOUSEで見た住宅は見えてこない。それもそのはずで「CUBE」は増築部分で道路の反対側にある。道路に面した既存住宅は築80年の古いものである。裏側は奥が深い上り勾配の斜面になっている。断面的に言えば、増築の2階が斜面に連なり、1階部分は道路に面して斜面側は土に埋もれた形になっていて、TUBEと同じ断面構成になっている。
十字形をした断面の木材による柱と梁で、8m角のキューブが作られている。
夫婦の寝室が8m角のキューブ空間の中に浮いたように2階に置かれているのは彼のいつもの手法である。その寝室は既存の住宅からはややレベルが上がっていて、空中階段で既存からその寝室に行くことができる。プランは8mを九等分にしたようなグリッドに分割される。寝室は4コマの広さで残りの二辺の5コマ部分は巨大な吹抜けになっている。しかもその上部は完全にガラスで覆われていて十分な自然光が1階のリビングに降りてくる。既存とのつなぎ部分には坪庭が造られていて、これがあるおかげで既存住宅にも自然光が入るよう計画されている。様々な素材の組み合わせはここでも行われている。特に外壁のガラスは赤く着色され、これはチェコから輸入したものだそうである。何故チェコかと言えば勿論ボヘミアングラスの伝統もあるのだがこのカラーガラスを作るにはカドミウムを使用するために日本やヨーロッパではその使用が禁止されていて出来ないためだそうである。テラスにテーブルと椅子を出して、アップル・パイと紅茶をごちそうになる。オーナーは広告会社を経営していて日本のマツダも手がけたそうで、1年間に8回来日したそうである。そこを去った後、ウイーン全土が見渡せる丘に行き、しばらく市を遠望する。
4件目の住宅はリノベーションで、道路と反対側の庭に面した壁を取り去り、そこに幅2m程の木造で作った全面ガラスのファサードを取り付けた吹抜空間を作っている。オーナーはバカンスで留守のため、ドリエンドル氏が合鍵を預かっていて自ら開けて案内してくれた。
住宅はここまでで、ウィーン市内に戻り、彼が最近手掛けたオフィスビルを案内してもらう。今月号の仏誌オージュドウィにも紹介されている、Twist Buildingである。
土曜日なのでやはり彼が鍵を持っていて内部を案内してもらう。その後彼の事務所へ立ち寄ると奥さんがオフィスの掃除をしていたのは微笑ましかった。奥さんはミュンヘンの出身だそうである。その後夕食までは時間があるのでマッシミリアーノ・フクサス設計のオフィス・タワーを見に行く。
しかし、フクサスらしさがあまり感じられなかった。フクサス氏とは昨年の10月にリトアニアのビルニウスでリトアニア建築賞2003の審査を共に行った仲である。彼の父親は、もともとリトアニアのカウナスの出身だそうでその縁で呼ばれたものらしい。彼が審査員長でなかなかパワフルな人物で全体を仕切っていた。 その後ステファン・プラッツ通りにある日本料理レストランの天満屋に行き、Driendle氏と夕食を楽しむ。この天満屋はウィーンに来るとホテルに近いせいもあり特に日本へ帰る直前などよく立ち寄る店で味も良い。 様々な話をした。本当に充実した一日であった。
それにしても最近の日本の住宅はあまりにも内容がお粗末に思われた。空間も素材もそれほど熟慮されたものには思えないし、質的にも随分とプアーであるように思われる。
僕も現在三つの住宅を進めているが反省させられた。又、住手のセンスのよさが格段に違うのである。置いてある絵、調度、家具、日用品、どれをとっても圧倒的に優れている。本当に日本の現状は情けない。
彼と再会を約束して別れる。彼は明日イタリアへコンペの審査のため出発、僕はいよいよダマスカスだ。


7月11日

午前10時25分ウィーン発のオーストリア航空でダマスカスへ向かう。ダマスカス着午後3時。ウィーンとは時差1時間。模型も無事着いた。市内までうまく運べるかどうか不安があったがうまくワゴンタクシーが拾えた。それにしてもウィーンに比べるとすごい暑さだ。もっとも今年のヨーロッパは例年になく寒い夏なのだそうである。しかし昨年は例年に無く暑くとにかく地球の異常現象はただ事ではない。
ここダマスの気温は37℃。タクシーの車内に入ってくる熱風が顔を焼き付けるようだ。前回3月に来たときには快適だったのだが。
市内のスルタン・ホテルに着いたのは午後4時。考古学の赤澤先生とロビーで会う。部屋に入りたまらなくなりシャワーを浴びる。それにしても薄手のズボンを持ってきて良かった。早速着替え、赤澤先生とKHAN ASSAD PACHAへ歩いて出向く。とにかく暑い。KHAN ASSAD PACHAは450年程前に作られたキャラバンサライである。中庭を囲んで周囲に部屋が並び中庭の中央にはかつて噴水が作られていた。全体は二層構成でエントランスはバザールに面している。オマイヤドモスクもアゼンパレスもすぐ近くにあり、世界遺産級の建築である。これを日本側の援助でアラビアで最初の考古学博物館に改装しようというのが今回のプロジェクトである。現地サイドでサポートしてくれている飯野りささんと現地で会う。飯野さんは現在東大の博士課程に在籍していてシリアには古代の伝統的音楽の研究のため、ダマスカスに在住しており、アラビア語も堪能で我々には力強い味方である。
赤澤先生と一緒に各室を歩き、一つ一つの部屋を何に使うか検証していく。屋上にも登る。前回の調査では外部のバザールとの関係の調査が不十分であったが、今回の調査で随分とはっきりした。調査後旧市街を歩いてきれいな中庭を持ったカフェBeit Jabriに行き、ノン・アルコールを飲む。席は中央の池に面して気持ちのよい快適な場所だったのだが、ノン・アルコールはまずい。しかし空間の構成は良い。そこから更に30分程歩き、アラブ料理レストランel-Yasarに行く。ここは美しい中庭に客席がしつらえられている。中央に噴水を持った池があり、そこに面した席に着く。空間構成はアゼンパレスと同じで周囲をかつての貴族の部屋が取り囲む。それらは宴会場や個室、あるいはバーになっている。本物のビールにやっとありつく。料理が素晴らしい。スターターはシリアの特産レンズ豆のスープ。これは絶品である。香りといい、味といい、スープの濃さといい申し分ない。更にホルス、野菜、サラダ。とにかくシリアの野菜は味が濃い。にんじんの棒切れをかじるがうまい。そして甘い。ジューシー。にんじんはシリアが原産だそうである。シリアはかつて肥沃な三日月地帯の中心をなし、野菜や果物が昔から豊富でシリア原産の果物・野菜は多く、りんご、にんじん、各種麦等々と枚挙にいとまがない。
ケバブ料理は他では食えない。とにかくうまい。しかしあまりにも量が多い。最後にフルーツが出されるがこれが又うまい。東南アジアのフルーツとは全く異なる。冷たく冷えた西瓜、メロン、プラム、桃。(桃もシリアが原産だそうである。)西瓜の甘さが程良い。日本の西瓜は品種改良で手を加えすぎ、甘すぎる。それに比べると西瓜同様桃もすっぱくて美味しい。日本の桃程甘くて水気も多過ぎないのが良いし、大きさも手頃である。
レストランを後にしたのは23時15分。タクシーでホテルへ戻ったのは23時30分。30分ほどホテルのロビーで例のアラビアンティーを飲む。12時過ぎ就寝。


7月12日

8時起床。よく眠れた。日中は暑いが、朝夕は驚くほど涼しい。シャワーを浴びた後、朝食をとり、国立博物館へ行き、10時から考古学局の総裁や各ディレクターを交えてプレゼンテーション。日本から持ち込んだ大きな模型もダメージがなく、一安心。総裁の部屋の中央に模型をセット。中庭は通常展示空間として用い、時にコンサートやファッションショーなどが行えるように提案する。中庭の一部はオープンカフェとし、屋上も夜間カフェとして利用する。そのため屋上のドームは夜間ライトアップする。考古学局の総裁にこのプロジェクトのArchitect and Supervision of the Constructionを任命される。そのcertificateも作成してくれるとの事である。現状の照明が良くないし、トイレもひどい。海外からのツーリストが来たら、これでは恥ずかしいと説明する。総裁から現状に関して気づいたことをcriticizing letterとして提出するよう依頼される。また来週大蔵省と来年の折衝をするのでとくに中庭の円形開口を電動で覆うスカイライトの材料とその量を今週中に出すよう依頼される。打合せ後、博物館の中庭のカフェでアラビアコーヒーを飲む。
再びKHAN ASSAD PACHAへ行き、トイレとライブラリーの調査を行う。
その後バザールでアラビアコーヒーを買う。
同時にアレッポ名産のオリーブ石鹸をみやげものとして買い込む。ホテルへ戻り、シャワーを浴びた後、空港へ向かい、15:50分初のオーストリア航空でウィーンへ向かう。18時にウィーン空港着。
機内で書いた石神井公園の住宅のスケッチをA4、4枚東京へFAXで送る。持っていたシティバンク・アメリカンエクスプレスのユーロ小切手を全てキャッシュに変える。
これはブルノプロジェクトの設計料をユーロで東京のcity bankに振り込んでもらったものである。日本で引き出すと日本円に替えられてしまうのでユーロの小切手を作り、ヨーロッパでキャッシュに替えるのがベスト。
ウィーン空港のカウンターで明日の東京行きのチェック・インをしてタクシーでホテルへ向かう。ホテルに預けておいたバッグを受け取り、部屋で荷物を解き、明日の出発の用意のための荷物のパッキングをする。 その後地中海料理「ドブロフニク」に夕食に行く。
このドブロフニクは魚のグリル料理がベスト。今回で二回目。アドリア海ワインを揃えている。様々なシーフードをこの内陸のウィーンで楽しめるのは嬉しい。それに日本人の観光客が滅多にいないのが良い。
その後ウィーン市内を歩く。やはりウィーンの街は格段に美しい。ロンドンやパリも百回以上行っているがウィーンの方がはるかに気品があるし、ショーウインドーのセンスもいいし、何しろ売っているものが様々で楽しい。


7月13日

起床後朝食をとり、その後歴代皇帝が眠る廟を見学。いつもの本屋へ立ち寄り、ランドスケープの本を買う。この本はCGの図面が豊富で主にイタリアの有名な建築とからんでランドスケープを紹介している。それも一級品ばかり。
ホテルに戻り、風呂に入り、チェックアウトをし空港へ、昨日のうちに空港で土産やショッピングを済ましていたのは大正解。荷物は全てチェックインパッケージに納めたので身軽。いつものように空港内のPost officeへ行き、出発が一時間遅れたのを利用しダマスカスの電動式スカイライトのメカニズムのスケッチを二時間程で書きそのまま東京へFAX。
15:00東京へ向け出発。離陸。



7月14日

今日はパリ祭である。今朝ヨーロッパから帰ってきた。激しい旅だった。丁度一週間でシンガポール、ハノイ(ベトナム)、ウィーン、ダマスカスと回った。少々疲れたが万事予定通りに進んだのは嬉しい。 成田空港着8時半。スタッフの土屋が迎えに来ていてそのまま大学へ。荷物は土屋に持って帰ってもらい、教授室で3時間程眠り、午後2時半から製図の授業。夕方5時半から8時までゼミ。その後事務所に戻り午前1時まで打合せ。さすがに少し疲れた。


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