出張日記


2005年

旅は一つの薬である。なよなよしただるい体をきゅっとしめあげてくれる。様々な療法があるけれども、旅が最も人間を元気にしてくれる。旅が出来なくなったならば、もう人生の終に近いと悟るべきだろう。
今回の旅はウズベキスタンである。出発する前は花粉症で目や鼻がじくじくとイライラするような体調だった。とにかく目覚めが悪い。めったに熟睡できない。しかしウズベキスタンに着くやいなや、なまった体は完全に鍛え直された。
それにしても様々な事が起きた旅だった。

3月22日

10時に自宅を出る。空港に11時半に着く。
今回はテレデザインの納村、テラダデザインの寺田、ステューディオ2の二宮の各氏、及び宇宙船地球号の國安さんが同行。
ウズベキスタンでは日本、中国、韓国、ウズベキスタンの建築学科の学生が共同でワークショップを行うのに、指導教授として参加。サマルカンドの世界遺産の建築群の周辺整備に対して提案を行うというもので、サマルカンド大学が主催、サマルカンド市が後援する。サマルカンド市側はこれらの案を実現の参考にするというからら興味深い。
空港ロビーで待ち合わせチェックイン。パスポートコントロールを通過してラウンジで休んでいると突然携帯電話が鳴る。恩師の丹下健三先生が今朝亡くなられたとのことで大きなショックを受ける。呆然としたまま飛行機に乗る。FlightはASIANA。ASIANAは好きな航空会社の一つである。STAR ALLIANCEのMemberである。インチョン(仁川)空港には16時着。オープンしたのは2001年の3月だが、ソウルに来る時はいつも羽田―キンポ間のシャトル便を利用するのでインチョンは初めてである。思ったよりもゆったりしている。やや空間が間のびしている印象はあるが、それでも成田空港に比べたらはるかに良い。
天井も高く自然光も十分に入り、気持ちが良く空港建築としては合格だろう。それにしても成田はひどい。特にコンコース、ウェイティングラウンジなど悲惨なイメージがある。
空港はその国の顔である。成田に着いた外国人の友人達に印象を聞くと全員が「誰が設計したのか。」「建築家は誰か。」と聞かれる。世界の一級の空港で建築家が設計していないのは成田ぐらいだろう。全ての主要建築に政治がからみ、官僚が幅をきかすこの国ではどうしようもないのかも知れない。空港建築のもつ重要性が全く理解できていないのだから話にならない。
ソウル経由でウズベキスタンのタシケント行き、ソウル17:30発に乗る。タシケントには朝鮮人が多く住んでいる為、ASIANAが飛んでいるのだろう。機中丹下事務所時代の11年間が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。丹下先生とは主に海外出張の折、食事やホテルで休憩する時に色々な話を聞かせて頂いた。後ろ髪を引かれる思いでタシケントに向かう。
タシケントには21時30分着。4時間の時差があるのでFlightの時間は8時間かかったことになる。機外に出ると思ったより暖かい。パスポートコントロールを通過するのに異常に時間がかかる。21世紀のこの時代にここまで時間がかかる空港も珍しい。バッゲージクレームに行って荷物を待つが一向に現れない。遂に全ての荷物が出終わるが、僕の荷物は出てこない。他のクレームなどを探し回るが結局ない。あわてて様々な所を探しても無駄。結局見つかったのは最終出口のX-rayを出た所。誰かが持ち出そうとしたのだ。出口で荷物のタッグ照合をしないので誰でも自由に持ち出せてしまうのだ。
トラベルエージェントのスタッフとバスが迎えに来ていた。後で分かるのだがこのエージェントがとんでもない悪徳業者。とにかくバスに乗って一路サマルカンドへ向う。途中ドライブインレストランが立ち並んでいるのを見て立ち寄る。ビールと野菜サラダ、ケバブ料理(シャシリキ)を注文。それにしても野菜が旨い。日本の野菜と比べると香りがするし、味が濃厚。日本の野菜は人工的過ぎて、味も香りもなく水っぽい。ケバブも肉汁が豊富でうまい。レストランを出たのは深夜12時。結局サマルカンドに着いたのは朝の5時。ホテルにチェックイン後そのまま眠る。


3月23日

9時起床。朝食後サマルカンド大学へ。大会議室に行くと学部長や教授陣が出迎えてくれた。彼らの歓迎スピーチの後全員自己紹介、及びワークショップの進め方を話しあう。今回の出席学生は日本から1名、韓国4名、中国4名、それにウズベキスタンから10名。
その後製図室に行く。余りにも粗末な所。テーブルが置いてあるだけで何もない。
その後バスに分乗し、あらかじめウズベキスタン側に選ばれていた三つの敷地を訪問。
最初のSite Aはグリ・アシール廟を中心とした一帯で将来のトゥーリストセンターになることが予定されている。Site Bはサマルカンドで最もモニュメンタルなレギスタン広場を中心とした建築群。これは世界遺産でもある。三つの建物がコの字型に配置されている。建物群は広場の正面に控えるティラカリ・マドラセ(神学校)、正面左側に建てられたウルグベク・マドラセ(神学校)、正面右側のウルグベク・マドラセを模して建てられたと言われるシェルドル・マドラセの三つから成る。その前庭を含んだ一帯にランドスケープ、及び観光客のためのチャイハナ(屋外ティースポット)やスベニールショップ(土産物屋)等を提案するというもの。このSite AとSite Bは道路を挟んで隣接しているのでこれらの二つをどう結ぶかがポイント。3番目の敷地は靴工場跡をウズベキスタンスタイルのホテルにコンバージョンするというもの。もともとこの敷地はティムールが作った12の庭園の一つだった所。旧共産圏どこでも言えることだが、ソ連が支配してから歴史的に重要な建造物はことごとく破壊されてしまった。特にティムールが作った庭郡は惜しまれる。
その後市内のレストランで昼食。大学へ戻ってからチーム編成を行う。三つのチームに分かれて今日の見学の結果、条件の整理等。
明日からの作業に必要な1/500のMapやスケッチのための材料、模型材料の手配をして今日の作業は終了。
ホテルに戻り夕食。ホテルのバーで飲む。


3月24日

朝から胃腸の調子が悪い。昨夜眠る前に食べたリンゴが原因らしい。そのリンゴもエントランスホールに置いてあったものだから古い物かもしれなかった。
東京での疲れも一気に出たらしく、終日眠る。やっと起き上がれたのは夕方の6時だから随分眠った。
ホテルでタクシーを手配してもらい、サマルカンド大学建築学科教室へ向う。学生達は熱心に作業をしていた。寺田氏が残っていた。
中国の精華大学のマスターコースの学生達と世界遺産レギスカンの周辺整備のディスカッションを行う。思ったよりも中国の学生のレベルは急速に上がっているように思う。10年前だと時代遅れの社会主義的権威建築の表現が主流を占めていたが、もう完全に世界の潮流が視野に入っている。ヘルツォークやOMAのデザインが強く影響を与えているのは間違いない。そのままホテルに戻ると、納村、二宮の両氏、及び國安さんがカフェにいたので、一緒にお茶を飲む。夜9時には部屋に戻り、早々と眠りにつく。


3月25日

10時半にブハラへ向けて出発。ミニバスをチャーター。距離にして300km程。時間にして3時間半。サマルカンドのホテルを出発したのは、10時半。ブハラ着、午後2時。ブハラはかなり荒れ果てていて、遺跡(特に神学校やマドラサ「貴族の館」)を修繕したものが多い。そのため、感動的な建物には巡り会えなかった。しかしプロムナードの交差点に作られたバザールの建物は良かった。プロムナードの交差点にあるために四方に入口を設け中央にドームを持つのが、一般的なタイプである。ドームの下の空間は通りの交差点になっていて、人の往来がひっきりなしでそこに様々な店が面してバザールになっている。かつての市内の道を歩いていくと、交差点に計3箇所ほどこのバザール建築がよく保存されている。それらは共通して、中央に大きなドームが作られ、道に面したところを絨毯などの店が軒を連ねている。


ブハラ-道路の交差点のバザール

しばらく歩いていくと、壮麗なマドラサ建築、かつての神学校などが建ち並んでいる。それらは崩れ落ちていた遺跡を復元したもので、オリジナルではない。やたらピカピカと光った復元建築よりは、たとえ崩れ落ちたものでも、オリジナルな遺跡の方が感慨も深い。町の中央には大きな長方形の池があって、ほとんどの観光客はここを起点に市内巡りをすることになる。
私たちは市内巡りを終えた後、この池に面したレストランで夕食(と言うよりは遅い昼食:18時から)をとった。
ウズベキスタン料理の定番、シャシリキ(串焼き、トルコのケバブで、牛、羊、チキンの肉等を用いる)、ショルヴァ(これはスープの一種で、あちこちで食したが大概旨く、不思議なことに、ほとんどがぬるめ。中には大きな肉の塊や野菜など具沢山)、プロフ(ピラフの一種で、プロフがピラフの語源なのかもしれない。チキンや羊の肉が添えられたものが多い)。それにパン(中央アジアのパンは歴史も古く、有名である。地中に埋められた釜の外側を焼き、内側の面で焼くものが多い。この製法のパンはイラン、インド等広い地域で見られる)。
すっかりと堪能した後、チャーターしたバスで一路サマルカンドへ戻る。ノンストップで280kmの道を3時間20分で走る。ゆったりしたミニバスなので、3席分の椅子に体を横たえて休む。ホテルに着いたのは10時半近く。



3月26日

ホテルに朝食後、SAMGASI(大学)へ向かい、tutorsを交え、学生達とworking。特にレギスタン周辺の計画を中心にdiscussion、studyを行う。 午後1時過ぎ、町のレストラン「GRINKA」で昼食。このレストランは有名な所らしい。いつものようにスープ、シャシリキ、プロフ等を楽しむ。 午後再び大学へ戻り、学生と一緒に作業を行う。早めに大学を出るつもりが、タクシーがなかなかつかまらず、18時30分に大学を出る。外はなんと雪が舞っていた。23日ワークショップの敷地を見て歩いた時は、日本の初夏の季節で、半袖で歩いていたのに、この激しい温度差に驚く。 日本人5名、韓国人3名の計8名がミニバスに乗り込み、一路、タシケントへ。それにしても、ポリスのチェックポイントが、多いのには驚く。雇用対策のためなのか、やたらポリスの数が多い。一人がたまに車を停車させて尋問しているが、他のポリスは何をすることもなく、ただお喋りしている。このようにたくさんチェックポイントを作るほど、この国の治安は悪いのだろうか。そうは見えないのだが。 一番前の席に座ったので、バスの長旅はかなりきつい。結局タシケントに着いたのは夜の11時半。タシケントまで雪はずっと降り続いていた。ホテルままあまあ。早めに床に入る。


3月27日

起床5時20分。ホテルを5時半に出発。空港へ向かう。7時発の飛行機で、一路ウルゲンチへ。タシケントは厚い雲に覆われていたが、離陸後、1時間もすると快晴。完全に気候が異なるのだ。眼下にはあちこちに大きな池(というよりは湖)が点在する。それに大地は一面緑。かつてこの肥沃な大地を巡り、様々な王朝が興亡した。ウルゲンチには8時半に到着。タクシーでヒヴァに向かう。


ヒヴァのカザフスタンゲル

途中タクシーの運転手にウズベキスタンの話を教えてもらう。やがて町を取り囲む城壁が目に飛び込んでくる。ヒヴァは2つの城壁によって囲まれている。外側は、カラクム砂漠との間に築かれたテイシャンカラと呼ばれる全長6km程の城壁である。内側は中世ヒヴァの町を取り巻いている。私たちが辿り着いたのは、この内側の城壁である。高さ8m、長さ約6km程である。このヒヴァは、アムダリヤ川によって作られた。肥沃な緑の大地に作られた都で、古来シルクロードから、カスピ海、ペルシアへの中継地点として栄え、既に8世紀にはこの都が存在したことが、確認されている。
さてこの内側の城壁は実際訪れてみると、かなり大きなもので驚かされる。
イエメンのサナアの城壁によく似ている。西門から入ると正面にこの町のメインストリートが目に入る。入ってすぐ右側にあり、最近修復が済んだホテルマドラサに行くが、満室とのことで、断られ、代わりのホテルを探す。近くで小さなホテルに投宿。ホテルに荷物を置いた後、城壁内の市街地を歩き回る。圧巻だったのはタシュ・ハウリ宮殿(新宮殿)。特に中庭が良かった。細長い中庭でその断面はほぼ中庭の短辺の長さ対高さが約2:1のプロポーションで快適であった。
中庭の片側には四つの居住単位に分かれているのが中庭側から容易に判断できる。それぞれの居住単位は中庭に面してオープンコートを持つ。それぞれのオープンコートの中央にはマドラサ独特の石の台座にのり、美しく木彫が施された柱が立っている。それらは中庭に接する。よくよくみていくと一番手前のものが他のものに比べると大きく作られている。柱も華奢だし、オープンコートも大きい。これがここの王様の居住部であることは容易に理解できる。


王様のオープンコートから

向こうに続く三ケの居住部分は第一、第二、第三夫人であろう。中庭の反対側には小さな部屋が数多く入った後宮があったという。それにしてもタイルの美しさは素晴らしい。 東門を出ると昔から続くバザールがあった。とにかくゾーニングらしきものは無く、色々な物が雑多に並んでいる。民族衣装、衣類、何十種類もの香辛料や肉、魚、穀物類、果物、野菜、様々な串焼き、パン、それらに加えて自転車やオートバイの様々な部品など実に豊富な品揃えだ。
焼きたてのパンを食べる。香ばしくて甘い。
その後街中に戻り、しばらく歩いていくと木造のモスク、ジュマ・モスクを見つける。百数十本の柱が全て木造、しかもそれらはおびただしい程の彫刻が施され、石の台座に乗って林立する様は圧巻である。モスクの中央は中庭になっていてそこから光が入り込み、内部の奥へも入り込んでいく。それらの光が作り出す明と暗、光と闇の空間は素晴らしい。


木造柱が林立する木造モスク

聞けば800年程前に作られていて創建当時の柱も混じっているらしい。時代と共に朽ち果てた柱は新しいものと取り替えられる。そのため柱の木彫は様々な時代のものが混在していてそれらのデザインを見ていくだけで味わい深く、興味深い。
周囲の壁は石積みになっていて、石と木の材質のコントラストも面白い。これは第一級の建築である。その他パフラヴァン・マフムド廟なども面白い。そこへ登る。
城壁に接して作られたクフナ・アルク(古い宮殿と言う意味)も見応えがある。そこには望楼が作られていてそこからヒヴァの街が一望できる。


望楼からヒヴァの街を見下ろす


あちこちにドームやモスクのミナレットが林立し、美しいシルエットを作り出している。
夕方7時にモスクの内部へと入る。地元の人達と一緒に礼拝をする。額を床にこすりつけ、メッカの方へ両手を伏せて尻を跳ね上げ数回お祈りをする。そしてしばらくメディテーション。様々なことを祈る。するとどうだろう肩の力が抜け,気分が実に爽快なのである。
夜8時寺田氏が予約してくれたレストランへ行く。なんと民族音楽を奏でるバンド、舞踊団が私たちのためだけに来てくれた。1時間程のショー。この手のショーは観光客にあまりにもおもねていてやや白けてしまうのだが、今回のは良かった。なにしろ貸切で、しかも演じる方も素朴。一緒に踊りに加わるなど、観光スポットでは勇気がいるが、貸切なのでさ程抵抗も無い。
これで25ドルというから2,700円程である。少し申し訳ない気分になってしまう。
10時にはお開きでホテルに戻る。今夜は満月なのだ。ヒヴァのメインストリートの正面高くに満月が光輝く。それが作り出す陰翳や月の逆光シルエットは素晴らしい。淡い光と闇がブレンドされた空間が作り出される。皆感激。
しかしホテルに戻ると地獄が待っていた。昼間はあんなに暖かかったのに、夜は気温が7〜8℃に下がる。ホテルに暖房はない。
仕方がないので持っている下着や衣類、果てはコートまで身に付け、しかも二つのベッドの毛布やシーツなど全てかけておまけに誘眠剤まで飲んで夜11時には眠りにつく。


3月28日

昨夜の誘眠剤のおかげか何とか寒い中ぐっすりと眠れる。朝食を急いですませ、車に分乗し、一路ウルゲンチ空港へ。9時半発で10時半にはタシケント着。空港でタクシーをチャーターし、市内を走り回る、ここタシケントは中央アジア最大の現代都市で人口は200万人を数える。中央アジアで唯一地下鉄が走る街である。
タシケントとは石の街の意味で11世紀にはシルクロードの中継地点として繁栄を極めた。
その後モンゴル軍に街は破壊されるが、やがてティムールの時代に街は復興する。車はクカルダシュ・マドラセに着くが、修復中でしかもヒヴァのマドラセを見た後では感慨もわかない。すぐに隣のチョルスーマーケットに向う。このマーケットは面白かった。中央の巨大なドームの中には放射状に様々な店が並ぶ。チーズ、肉、野菜、果物、香辛料は中近東から中央アジアのマーケットにかけては定番である。
ざくろを見つける。このざくろは本当に甘くてみずみずしい。この辺は昔からざくろの産地である。遠いシルクロードを伝わってやがて日本に着く頃はあのようにすっぱくなってしまったのだろうか。それにトマトが圧倒的に美味しい。真紅で血のように赤いし、切るとそんなにやわらかくはない。身が締まっている。聞くところによるとトマトはやせた土地の方が美味しく育つそうだ。
その後博物館へ行くが、月曜日で休館。そのまま郊外のレストランへ行く。ここで初めて前から飲みたいと思っていたカザフスタンビールを飲む。タシケントは大都市なのでイスラム教徒以外の人も結構いるのかも知れない。ショルヴァは巨大な容器に入っていて驚いた。プロフはかなり旨かった。
午後3時にレストランを出てサマルカンドへ向う。又300kmの道程だ。しかし今回は昼間でしかも気候が良いのであちこちで停車しながら気ままに進む。道中突然眼前に白雪に覆われた巨大な山脈が正面に立ちはだかるように現れる。この山脈の向こうがアフガニスタンとの事である。


山の向こうはアフガニスタン

途中停車して皆思い思いに写真を撮る。美しかったのは日没。丁度谷の向こう側の丘に太陽が沈んでいくのを、固唾を飲んで見つめていた。


サマルカンドの夕日

日没後、しばらく丘の上で談笑し夕方7時過ぎサマルカンドに向う。ホテルに着いたのは夜の9時半。外へ夕食に行くのも面倒なのでホテルでありあわせのものを頼むと何と赤飯が出てきた。これは日本のものと同じでなかなかうまかった。
ビールを飲んで午前1時に眠りにつく。


3月29日

ホテルで朝食をとった後、レギスカン広場へ。三つの建物群を見る。今日は本当に天気が良い。正面のティラカリ・マドラセの建築が面白かった。
タイルの装飾が素晴らしい。イスファハンに比べると全体が小振りに出来ていているがタイルの質はイスファハンよりも素晴らしい。さすがにティムール朝の都であったことが偲ばれる。ティムールという人物は何か不思議な人だ。もともとモンゴルの末裔のチャガタイ・ハン国の貴族の家に生まれ、祖先はチンギスハーンにつながると言われている。フビライの時代にチャガタイハン国建国と同時に住み着いたモンゴル人も13世紀頃からイスラム化したと言われている。ティムールは山賊のようなことをやっていたらしい。そしてその器量に魅きつけられた者達が彼の元に集まり、一大盗賊となっていった。そしてやがてサマルカンドを制してティムール王国を建国する。イランのイスファハンを攻め込んでこれを征服し、やがて帝国は西はトルコから東はインド北部を占める巨大な帝国になっていく。そしてやがて中国を征服するために遠征途中に志半ばで病死する。その子孫の一部はインドに渡り、やがてムガール朝を興す。インドのイスラムはティムールの末裔なのである。
さてレギスタン広場の建築群に話を戻すと、三つの建物は全て神学校である。何故にこのような神学校がしかも同じ場所に必要だったのだろうか。建築は全て中庭を中心にしたもので周囲にはかつての僧坊や学習室、個室などが並んでいるが、がっかりさせられたのはそれらの中庭周囲の部屋やオープンコートが全て土産物屋に占拠されていることだった。興ざめである。世界遺産の建築の中心にこのようなものを許すウズベキスタン政府の方針は理解できない。
これらの建築群は共通していて中の中庭を走る軸線正面には透かし彫りの石彫が置かれていてその向こうに中庭、その背後にイワン(正面に立つ壁にポインテッドアーチの開口をあけ、その上部に複雑な凸凹を持った天井を作りその上部を玄関前部のオープンコートとしたもの)そしてその上部にドームが透けて見える構図は素晴らしい。
天気も良かった。気候も湿度も中央アジアのものだ。そこからタクシーに乗り、サマルカンドの高級レストラン「アストリア」に行きランチ。味は洗練されているがのだがやや物足りない。
昼食後SAMGAS(大学)へ。午後1時から学生達のワークショップの最終プレゼンテーション。
Site A、Site B、ウズベキスタンスタイルのホテルの順に学生達が発表。短期間で道具も粗末な割にはよくできていた。

プレゼンテーション風景

中国清華大学の学生、韓国の学生と

プレゼンテーション終了後、午後4時半発大学からまっすぐタシケント空港に向う。空港には8時に着き、ASIANAのSeoul行きに乗る。運良く3席連続で座ることができたのでぐっすりと眠る。


3月30日

朝8時ソウル、インチョン空港着。
タクシーでソウル市内のアストリアホテルに11時にcheck in。その後明洞(ミョンドン)で石焼ビビンバを食べる。
ホテルに戻り、バスタブにお湯を溜めて湯船につかる。ウズベキスタンでは風邪のため数日間シャワーを浴びていなかったので本当に気持が良い。
ホテルに午後2時。成均館大学の先生が迎えに来る。成均館大学は儒教下の古い大学である。ソウルの南水原(スーウォン)にある。大学へ着き教授室でしばらく話をした後、二宮、納村、寺田、古市の順で講演会を行う。学生や教授の人達には好評だった。終了後近くの韓国料理の料亭に招かれる。本物の韓国料理を堪能する。その後世界遺産、水原城をライトアップの中見学。水原からソウルのホテルに戻ったのは夜11時半。


3月31日

10時半ソウル発。13時成田着

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