出張日記

2005年


7月2日

事務所で向こう一週間分のスタッフの仕事分担、及びスケジュールの確認した後、夜7時15分事務所を出て8時羽田着。午後8時40分発のJAL、Emirates共同運航便に乗り関空へ。午後11時15分発のEmirates航空に乗り一路ドバイへ向かう。
それにしても関空はどうしたのだろう。店という店は全て閉まり、しかも荷物のチェックポイントが一ヶ所しかなく、長蛇の列の人が文句を言わず、暗い空港で待っている。羽田→関空→海外は東京の人にとっては成田に行く必要がなく便利なのだが、最新のデザイン、最良の建築をこのような使い方をするのは宝のもちぐされである。機内の最後列中央3列がまるまる確保できたので枕と毛布を大量にかき集めてベッドメーキング。夕食はまずくて食えたものではないが、ビールとワインを飲み、睡眠薬を飲んだおかげで7時間熟睡できた。


7月3日

ドバイには現地時間の朝4時着。それにしてもドバイ空港の変わり様には驚く。随分と昔来た時には、素朴な小屋程度の空港が、今や長さ1km以上のセントラルモールを持ち、しかもその両側には数多くの店舗が並ぶ超近代的な空港に変わっていた。ぶらぶらと一周した後、椅子に深々と座り、アイマスクをして足を投げ出しかばんの上に乗せて再び眠りにつく。 目覚めると先ほどまで閑散としていた空港は多くの乗客であふれていた。


カフェで軽い朝食を済ませてドーハ行きの飛行機に乗る。カタールのDohaは1977年の5月から12月まで住んでいた所だ。当時丹下事務所ではカタールのガバメントセンター、及び宮殿の増築、及びその周辺整備計画を進めていて僕は現地滞在し王宮に通いながら計画を進め、東京Officeとの連絡調整役を務めていた。Dohaは1978年に丹下先生とプレゼンテーションに来たのが最後で今回の訪問は27年ぶりということになる。それに磯崎さんがマスタープランを作り、ADHとシーラカンス小嶋氏が設計した大学キャンパスを見ることになっているので東京を出発する前から期待は高まっていた。
機窓から見るDohaの砂漠は全く変わっていない。到着後連絡バスで空港のターミナルビルへ。建物は随分と立派で昔の面影はない。昔はあった古い建物はどこにも見えない。しかしパスポートコントロールを行くと黒山の人又人。しばらく待つがなかなか進まない。ドバイの空港も出発が一時間程遅れたが、建物や機器、備品は立派になったがそれを使う人間は昔と同様で超スローペース。
遂になんとかやっと思いで外の待合ロビーへ出ると日本の建設会社の人が迎えに来てくれていた。挨拶もそこそこにEducation Cityへ直行。まずCornell大学医学部棟へ。現地の人のArrangementで広報の女性が内部をくまなく案内してくれた。後で見た小嶋さんのTexas大学棟の建築もそうだが二つとも想像していたより圧倒的に良い。二つとも空間が良い。中庭と光の取り入れ方もうまくアラブ建築独特の光と陰影のバランスが実に美しい。アラブの表現も過剰にならずシンプルで抑揚が効いている。この二つとも日本の建築では見られないタイプだ。十分な高さと幅を持ったコリドールがコーネルの場合は南北両棟が平行して作られている。Texas大の場合は直行するように作られている。コーネルの場合は二つのコリドールの間に大教室をシンボリックに配置している。両方ともダイアグラムがそのまま建築の構成になっている。無用な遊びをしていないし、なにしろ十分に大きな建築である。それに光、陰影、中庭が効果的にブレンドされている。アラベスクもシンプルで装飾にはなっていないのが成功している理由だろうか。日本で見たことのない建築である。その理由を考えた。スケールだろうか。それもある。十分な広さと高さを持ったパブリックスペース。仕上げも石を十分に使っている。しかしそれらの石も過剰に自己主張をしない。壁の開口や階段を巧みに配しながら、空間がシークエンシャルに繋がっている。
海外で仕事をするときどうしても最終的な詳細の納まりが、設備の機器の配列などでどうしても甘くなってしまうのだが本当にきれいに仕上がっている。Shop Drawingや現場の監理も余程きちんとやったのだろう。僕の経験で言えばアラブの国々ではアラベスクや装飾が要求されたり、施工が雑になりがちだがこれら二つの大学は成功している。敬意を表したい。 大学を見た後リッツカールトンホテルで昼食。
旧市街のコーニスの北部にWater Bayが開発されたがこのホテルは更にその北にある。
Water Bayの沿海部は高層ビルや巨大ショッピングセンターが建ち並んでいる。しかも多くの建設現場が動いている。これなどは僕がいた時代には全くなかったものだ。只々驚き。その後シェラトンホテルへ。これはピラミッド型のホテルで内部は巨大な吹抜空間でサンフランシスコのハイアットリージェンシーホテルを思わせるものだ。これは1977年当時建設中だった。鉄骨工事は日本の川田鉄工がやっていた。内部へ入り、最上階の展望レストランへ。ここからはかつて僕が仕事をしていたコーニスが一望できる。なつかしい。
コーニス沿いに車を走らせる。巨大ショッピングセンターの一角にあるDoha City Marketに立ち寄る。中央に巨大な円形のアトリウムを配置し、そこから左右に巨大な三層構成のモールが伸びる。構成はマレーシアのクアラルンプールのペトロナスタワーの足下にあるショッピングセンターと全く同じ。僕がいた当時はこのようなヨーロッパスタイルの店舗もレストランもドーハの町には存在しなかった。その後コーニスに沿って歩く。そして再び車でコーニスを走る。77年当時もう既に出来ていた市役所、外務省やカタールバンクはそのまま。大蔵省はかつて丹下事務所が設計、監理したものだ。エミールズパレスの前を通って驚いた。かつて僕らが計画したものとは全く異なるものが出来ていた。 かつて丹下先生は装飾をそのデザインに取り付けることをがんと拒絶してエミール(首長)のアドバイザーとけんか別れをしてしまった。当時実施設計の途中まで進んでいながらドーハが引き上げてしまったのである。私たちが計画したものは当時の王宮の前庭にL型に増築を行い、中庭をつくるというものだった。それまでの既存の建物のアラビア風のファサードは中庭に面させて新しい丹下風のファサードをコーニス側に現わすものだったが、そのファサードにアドバイザーは過剰なアラブ装飾を要求したのである。果たせるかな実現された新築は完全なアラブスタイル、それもかなり醜いもので、しかも既存の横に建てたもので、周囲との関係も良くない。唯一王宮と時計台の間を走っていた道路を時計台の外側に移す、というアイディアだけが採用され実現されていた。
様々なことが走馬灯のように思いだされた。王宮の周囲を調査の為歩いていた時に突然機関銃を持ったガードに銃をつきつけられて冷や汗をかいたこと。毎日毎日王宮の中へ通い、非効率的な打合せを繰り返していたこと。
その後かつてのガルフホテル(現在はマリオット・ガルフホテル)へ。ここには一ヶ月程滞在していた。一階のロビーは完全に変わっていた。そしてかつて長期滞在していたオアシスホテルへ。当時はホテルと呼ばれるものはこのオアシスホテルとガルフの二つだけだったのである。オアシスのロビーも完全に変わっていて僕がかつて滞在していた121号室はもうなくなっていた。しかし外観はそのままである。部屋でシャワーを浴びた後、ディプロマティッククラブへ行き夕食。ホテルへ戻ったのは10時半。その後ホテル内を歩き回る。


7月4日

朝食後、車でかつてのオールドスークへ。しかしここも建て直されていた。かつてのものは完全に消えていた。それに代わり、石積に木造の屋根をかけたものが作られていたが、この石積みがなかなか良かった。
そのまままっすぐ空港へ。ドーハ発10時半。ドバイ着12時15分。予めお願いしていた日本の現地駐在の人が迎えに来てくれて、そのまま巨大ショッピングセンターへ。内部は七つのゾーンに分けられ、それぞれ中央に巨大なアトリウム空間を持っている。それらはいわばテーマパークのようなもので、中国、インド、エジプト、チュニジア、アンダルシア、ペルシアをデザインテーマにしたもので、それぞれのアトリウムはそれなりにそれぞれの国の雰囲気を出している。単に表面的なものではなく、作りもしっかりしている。モールの幅も十分に広い。
その後Matina Jerainスーパーマーケットへ。ここはやや小振で木造屋根のモールが中庭を囲むように四角い平面状に作られていて、その両側に店舗が並ぶ。人工に作られたクリークはなかなか見もの。



ホテルや、エッフェル塔と同じ高さを持つという。Burj Al Arabが入江の向こうにずしっと建っている風景はなかなかのものである。その後Dubai Museumへ。かつての住居を改造して、地下に大きなミュージアムがある。一番興味を持ったのはWind Towerである。風を取り入れる工夫がしてある。木造低層の住宅から正方形の平面をもつ塔が煙突のように高くそびえ、塔の頂部にはそれぞれ開口を持ち、どちらの方向から風が来ても内部を下るように風が入るようになっている。四角い平面に四隅を結ぶように十字形に布が垂れ下がるように作られていて下にいると確かに上部から風が下りて来る。



こういう工夫がかつては世界中に存在し、人間は自然と共に生きてきたが、20世紀の科学技術の元にこれらは忘れ去られてしまった。その後昔の住居群を保存しているHeritage Villageに行き見学をした後そのままホテルへ。HotelはDubai Hilton Creek。
全面ガラスカーテンウォール。机やシャワー、バスルームもガラスで作られている現代風ホテル。 ウルグアイの建築家が設計したとのこと。
湯船につかって休憩を取る。夕食後ハイアットホテルの一階にある日本料理京(みやこ)へ。


7月5日

朝7時過ぎ、日本から早朝ドバイに着いた千葉工大の学生がホテルのロビーに着き、電話が来る。軽く朝食を済ませ、学生と一緒にAbra(渡し舟)に乗りクリークの反対側へ行く。Sheikh Second Houseを改造した博物館へ。
その後スークを抜け、再びDubai Museumへ。そこからTaxiを拾ってGold Soukへ。その一角のカフェテリアで学生は朝食。全員パイナップルジュースを注文する。
しばらくGold Soukを歩いた後、僕は11時過ぎHotelへ。湯船につかり、showerを浴び、荷物のパッキング。学生諸君はBurj Al Arabを見学に行く。学生は12時に戻るはずが結局12時40分頃遅れて到着。そのまま空港へ。空港へ着いたのは午後1時5分前。2時のフライトに関わらずもう席がないという。抗議して何とか席を確保。
Damas空港に到着したのは午後4時。税関やパスポートコントロールを通り抜けるのに時間がかかる。特に東京から持ち込んだ大きな荷物は中身をしつこく聞かれるがシリア考古学局総裁からの手紙(古市をアザン・パシャ改修プロジェクトの主任建築家に任命するというもの)を見せたらフリーで通してくれた。空港でTaxiを拾いそのままSultan Hotelへ行きCheck In。千葉工大の学生は既に前日到着していてホテルのロビーで4人の学生が待っていてくれドバイからの学生2名と合流。
ホテルの部屋で荷物を解いた後、学生6人と近くの市街地を散歩。とにかくドバイに比べると涼しく、シャツ一枚だと夜は寒い。最もこれは特別なことらしく、学生によると昨日の夜はひどく暑かったとのこと。
赤澤先生が8時頃ホテルに着かれるとのことで近くのレストランへ。ここは高級そうなレストランで野菜が圧倒的にうまい。シリアの野菜はトルコ同様味が良いのには定評がある。流石に肥沃な三日月地帯だけのことはある。残念ながらレストランにはケバブ料理がないとのことで別のレストラン「アリババ」へ。ここはケバブ料理で有名とのこと。但しアルコールは出ない。その後ホテルへ戻る。


7月6日

9時半ホテルを出発。シリア国立博物館の考古学総局へ。新総裁に挨拶を兼ね、東京から持ち込んだ模型でプレゼンテーション。その後実測調査を行うために、学生とアサド・パシャ建築に伺う。学生全員と図面を広げ北と南を担当する二班に分け、実測方法を検討する。昼過ぎ赤澤先生が到着し、近くのレストランへランチに。ランチ後アサド・パシャで学生が測量を続けている間、僕と赤澤先生は一階の部屋を一ヶ一ヶチェックし、将来の考古学博物館のために必要な機能を決定していく。このキャラバンサライは中東最大のものと言われ、かつて一階は商談のための事務室、二階は隊商のための宿舎になっていた。僕らにとってはシルクロードからやって来たラクダの隊商が泊まったというだけで十分にロマンをかきたてられる。今回の自然史博物館では一階は企画展示室群、ミュージアムショップ、カフェ、ミニシアター、二階はかつての宿泊室を利用した常設展示、ミュージックライブラリー、学芸員室、ミーティングルーム、研究室群等から成る。しかもかつてのキャラバンサライを彷彿させるアトリウムは美しい空間なのでそのまま残す。
このプロジェクトは日本側が援助をして中東で最初の自然史博物館を作ろうというもの。
来年openということで時間が無いため、実施設計の完璧を期すため今回千葉工大の学生6名と一緒に現在のアサド・パシャを実測して正確な図面を作ろうというものである。赤澤先生と二人で一回の部屋をくまなく見て回る。扉の位置、天窓の位置、床のレベル差、天井の形態といった具合にチェックしていくのでかなり時間がかかる。三時間程行い二階の北半分は残して一旦ホテルに戻り、様々な設計条件やスケジュールを整理する。
午後7時に再びアサド・パシャに戻る。シリアで伝統音楽を研究している飯野さんも加わり、総勢九人でシリア伝統料理レストラン「エリッサ」へ。このレストランは前にも来た事があるが、かつての貴族の館を改修したもので、周囲の建物はキッチンやトイレ、あるいはバー、団体客用の宴会場が配置されている。



料理の方もかなりレベルが高く、地元の人によればダマスカスでもトップクラスとのことである。入り口は分かりにくいのだが、知る人ぞ知るレストランで中庭へ足を踏み入れた途端あっと驚くような濃密なアラブの空間が待っているという仕掛けである。ダマスカス内部では酒の飲めないレストランが多いがここでは様々な種類のアルコールが楽しめるというのも嬉しい。ビールはアル・バラダ。ダマス市内を流れるバラダ河にその名前の由来がある。
シリア料理の特徴は野菜料理にある。肥沃な三日月地帯にふさわしく様々な美味しい野菜(トマト、きゅうり、にんじん、レタス、ピーマン等)が色々な方法で料理されている。 羊肉や鶏肉を使ったケバブなどの肉料理も有名だが、圧倒的に野菜が中心といっても過言ではない。豆から作ったペースト状のホルス。これをパンにつけて食べる。これはどこにいっても必ず出される一般的なものである。
生野菜がかごにどっさり盛られて出てくるのもダイナミックだし、しかも野菜のスティックを何もつけずに食べるのだがこれが旨い。歯ごたえがあるし、日本の野菜のように水っぽくも無い。西瓜が大きなものでも25SP(シリアポンド)で約50円くらい。これも旨い。日本の工芸品西瓜とは訳が違う。中庭の噴水のほとりに座っているだけでもハッピーなのに、これに美味しい料理が出てくるのだから例えようもない。
このシリア料理のうまさは多分にトルコ料理の影響を強く受けている。トルコ料理は世界でNo.1という人もいる。一般的に中華料理、フランス料理、イタリア料理が世界三大料理と言われるのだが、人によってはトルコ料理をまず挙げる人がいる位である。
夜も遅くなって10時を過ぎる頃客が集まりだしてくるのはスペインのレストランのようである。シリアの勤務時間は役所だと朝7時から午後2時くらいまで。民間だと9時から午後1時までそして1時から4時まで昼食(いわゆるシエスタ)その後また仕事だということであるから案外スペインと同じようなライフスタイルを有している。このエリッサでの夕食会は本当に楽しいものだった。


7月7日

起床後早めにホテルを出て8時から実測開始。途中スークからウマイヤッドモスク前広場を通り抜け再びアザン・パシャへ続く通りをビデオに納める。これは後に動画を作る際のデジタル画像を収めるためである。
途中赤澤先生が現れ再び二人で昨日の続きを、今度は二階の部屋を一ヶずつチェックをしていく。それが終わってメリデア・ホテルで簡単に打ち上げのビール。その後ホテル近くのスタンドで昼食。昼食後アザン・パレスへ。博物館側が連絡をしておいてくれたおかげで無料。ガイドもしてくれるということだったが丁重に断る。
このアザン・パレスは私たちが進めているアザン・パシャを作った人物。彼はダマスカスがオスマントルコに支配されていた時代にトルコから派遣されてきた人でダマスカス知事を務めた人。現在考古学局にもアザンさんという人物がいるが子孫とのことである。
オスマントルコ様式で水平線を強調したややアラベスク装飾が美しいデザイン。しかも各部屋内部には噴水が作られているのが特徴。中庭にある池とそれに隣接するディクン空間の取り合いが美しい。
その後ウマイヤドモスクへ。ここはダマスカスに来るたびに必ず立ち寄る所。ここは教会にも利用された歴史があり、聖パウロの首が堂内に安置されていることでも有名。中庭空間が圧巻である。



中庭に面する金色を交えたモスク大聖堂の立面、周囲の列柱、中庭内に建ち内部に水をたたえた建物等見応えがある。ここは昼でも夜でも入れるが両方見ることを勧める。全く表情が異なるのだ。入場は夜8時までだが、かつてその直前に来た事があるがその美しさに息を飲んだことがある。
モスク内に座り込みしばし休息。それにしても巨大である。コルドバのメスキータモスクやカイロのイヴントゥルンモスクのようにモスクは本来それ程天井も高くなく均質な柱割が一般的である。このウマイヤドモスクはキリスト教会堂として建てられたように大スパン、天井の高さが特徴である。コルドバのモスクでさえ後にキリスト教会として用いるために中央部を取り壊し、明らかにスケールの異なる大空間を教会礼拝堂として建てている。キリスト教は天上を目指す。イスタンブールのハギアソフィアもラテン十字の大教会堂からモスクに改造されたものだがモスクにしては巨大すぎる。
ウマイヤドモスクの話に戻るが、堂内の中央には聖ヨハネの墓がある。モスク内の空間を堪能した後、再び中庭を歩き回る。その後スーク内を歩き回り、待たせてあった車でホテルに戻る。
ホテルで赤澤先生と合流し、そこからカシオン山へ登る。聖書にも出てくる山でダマスカスを見下ろす美しい展望台がある。



レストランもある位だから市民の憩いの場所なのだろう。帰途下って行くと眼前にシリア大統領宮殿が谷の向こうの丘の上に建っている。これは丹下事務所が設計したもの。僕が1975年に入所した時から足かけ4年位従事したプロジェクトである。本当に僕等が設計した通りに出来ている。実はこの作品はプロジェクトのみ発表されたもので実現したものは未発表なのである。日本人スタッフ一人が常駐管理したもので思ったよりも良く出来ている。大統領のレジデンスも計画通りだ。約30年前に設計したものだが、つい昨日のように思える。平面図は頭に入っているので内部に思いをめぐらす。セキュリティが厳しいので発表できなかったのだろうか。残念である。
赤澤先生が翌日日本に帰るとのことでアサド・パシャの実測の打上げも兼ねて夕食。ダマスカス市内のほとんどのレストランがそうだがここもアルコールは一切出されない。それでもバラグ川のミネラルウォーターで十分楽しい夕食会。
ホテルで赤澤先生に挨拶をし、部屋に戻りプロジェクトのデータや撮影画像、図面などの整理をした後就寝。


7月8日

ホテルを朝8時に出、バスで学生6人と共にパルミラに向けて出発。途中センダナに寄る。センダナは丘の上に立つギリシア正教教会が有名。



9時前に着く。金曜日なので(金曜日がいわゆる月曜日)ミサをやっていた。そのため教会内部に入ることができた。
階段を上り、丘の上の入口にたどり着くと周囲を取り囲む壁にポツンと開口がある。そこを入ると左にトンネルが折れ曲がる。途中ニッチがありキリストやマリアの聖像(イコン)がある。そこを抜けるとそれほど広くはないが教会前の中庭に出る。内部はブルーを基調とした教会堂で、正面にイコンが上下・左右にびっしりと飾られたロシア正教などに比べるとあっさりとしているが天井から吊られている金色の燭台などは派手。僕が設計した佐世保の浄土宗九品寺を思い出す。
中庭から更に教会堂の反対側の階段を上っていくと屋上広場に出る。そこから見下ろすセンダナの街が美しい。この街にはモスクのミナレットはない。あるのはキリスト教会堂のみ。シリアにはこのようなキリスト教徒の街は結構ある。
そこから更に同じキリスト教の街マルーラに向かう。30分で着く。ここは丘の上というよりは山の斜面に作られた修道院。



ここに住む人々は今でもキリストが話していたと言われるアラム語を話していると言われる。正面の階段を上っていき右折すると教会堂前の中庭に出る。この教会はセンダナよりはやや小さめである。
圧巻は山をくりぬいた聖堂。多くの信者がろうそくを次々に持ち寄り参拝している。
マルーラを出たのは午前10時半。そこからひたすらパルミラへ向かう。途中右に折れ曲がる通路はバクダッドへ連なる道で、そこからは約200km程。一瞬緊張する。
午後1時過ぎパルミラ着。パルミラは二度目である。前回は1998年の12月13日に来ている。
まず町のレストランで昼食。その後パルミラ見学は強い太陽の日射にさらされるので全員アラブの頭巾と頭にのせる黒輪っかを買う。両方で日本円にして200円。それにしてもパルミラの町は以前と比べると随分と観光化し、店員も日本語を話すところをみると日本人も多く訪れるのだろう。
前回と同様にパルミラ遺跡を見下ろすことのできるアラブ砦へ。



その後ベル神殿が午後4時オープンということでまずパルミラの町を記念門から入る。とにかく暑い。列柱群から浴場跡、円形劇場を見た後、この建築群の中で最も美しい四面門をじっくりと見た後葬祭殿へ。その近くまで車を呼んであったのでそこから車に乗りベル神殿に戻り見学。じっくりと見て回るが暑さでバテる。午後5時過ぎに見学終了。一路ダマスカスへ戻ろうとすると車がパンク。パンクの修理で車を待つ間、野外喫茶でアラブティーを飲み、そのまま水パイプを皆で回し飲み。これは様々な味(香り)があるがここのはほんのりと甘い。全くいがらっぽさがないので快適。



修理後午後6時15分パルミラ発。夕暮れの中を一路砂漠を走り抜けダマスカスまでのドライブはなかなか良かった。ダマスに着いたのは午後9時頃。アザン・パシャ近くのハマーム(トルコ式スチームバス)へ。入り口で貴重品を預けるとそのまま中央の噴水を囲んだ1m程高くなっている所に案内される。長椅子が中庭を囲んでいるのだ。やがて男がやってきて衣服を脱げという。腰巻のようなものを巻き、木製サンダルを履き、浴場へ。前室がある。その周りには大きな水風呂が置いてあり、スチームバスからでてきた人はそこの桶で皆水をかぶっている。前室からスチームバスに入ると湯気で周囲は見えない。とにかく熱いが気持ちが良い。一角から蒸気が常時出ているのでそこには近寄れない。かつて丹下事務所をやめた後クウェートの事務所に勤務していた時、スポーツクラブにスチームバスがあった。しかし規模も小さく人もほとんどいなかった。しかしこのダマスのハマームは人であふれている。床に腰をペタンと落ち着け座り込んでいる者、横になっている者、様々である。ここの角々にも小さな水風呂があってやはり水をかぶることができる。しばらくすると前室に出て休憩。そしてその後又入る。この繰り返し。相当に汗を出す。前室の一角にサウナがあり入るがスチームバスの方がはるかに気持ちが良い。



十分に楽しんだ後脱衣の中庭に戻る。しかしそこには脱衣室などなく、1m程上った床に上ると乾いたタオルをもって男がやってきて正面に立ち、あっという間に濡れた腰巻をはがしタオルを巻きつけてくれる。他の誰にも見えないようにさっと行うその機敏な動作はなかなかのものである。次に別の乾いた薄いタオルで頭をふきとってくれ最後に肩に大きなタオルをかけてくれる。その後長椅子に座り休憩。本当に気持ちが良い。冷たい飲み物がのどを潤してくれる。窓口で貴重品を受け取り料金を払う。飲み物も全て含んで一人400円は安い。そこを出てウマイヤドモスクのライトアップを見た後、ハミディーエモスクを通り抜けヒジャーズ駅前でアラブ式ロールサンドイッチを食べた後ホテルへ戻り、荷物のパッキング。明日はいよいよダマスカスを離れる日だ。


7月9日

ホテルを7時過ぎにチェックアウトし、7時半に南部のボスラへ向う。今日の予定はボスラ、スウェイダー、カナワット、シャハバを見学した後夕方ダマスカス空港を発つ予定である。 ボスラには9時に到着。遺跡入口前でアラビック・ティーを飲んだ後野外劇場へ。ここボスラの石は安山岩の石であるが全体に黒味を帯びている。そのため遺跡の中を歩いていくとあのシリアの夏の強い日差しにもかかわらず全体に暗い印象を感じる。日差しが強くても暗い街の中を歩いているような錯覚がするのだ。ユニークな面白い体験だ。かつてインドのジャイプールを歩いていた時町全体が赤いインド砂岩で作られているため似たような経験をしたことがある。このジャイプールは「ピンク・シティ」と呼ばれたのだが、さしずめここは「ブラック。シティ」だ。
最初に正面に立ちはだかるローマ劇場に入る。本当に大きい。勿論、この建築も黒石で作られているので客席の最上段から見る光景は全体が黒ずんでいてなかなかの迫力だ。それにしても勾配が急だ。足をすべらしたら間違いなくまっ逆さまに下部に転落し、運が悪ければ命を落とすだろう。



最上段を半円状にぐるりと回り、次に段の中央部を水平に走る横通路を再びぐるりと回り、最後に客席の最下段を巡る。下から見上げる劇場客席空間は目もくらむ様な圧倒的な力をもって迫ってくる。ステージも広く更にすごいのはステージの背後の恐らく楽屋や準備のために用いられたであろう空間が大きいのだ。ステージで歌ってみると音響は思ったよりもいい。しばらくこのローマの大劇場空間を楽しんだ後、そこを出て旧市街を歩く。ローマの植民地都市に共通する浴場、市場の列柱などを見た後、一路スウェイダーへ。国立博物館に立ち寄る。その後カナワットへ行き、やはりローマの都市を見学。そこからシャハバへの道は丘の上のリンゴ畑の中を走っていきやがて眼下に町が見えてくるというドラマチックなものだった。



そこの博物館が良かった。ローマ時代の床のモザイクをそのまま残して上部を建築で覆ってしまうというもので床のモザイクの周囲上部に作られた見学者ルートから下部のモザイクが見られるという構成である。ローマ時代のモザイクは鮮明で古さを感じさせない。思えばこのシリアの一体は、7Cイスラム以前はローマの文化が花開いていた所なのだ。ヨーロッパ人のふるさとと言われる所以である。
シャハバを後に私達のバスは一路ダマスカス空港へ向かった。午後3時半に空港着。ドバイに向かう。僕と学生二人は、これからアレッポ、トルコへと向かう残りの学生4人と別れの挨拶をする。
チェック・イン後、空港ビルの中でビールを飲み乾杯。午後5時半、ダマスカス発。時差の関係で午後9時ドバイ空港着。僕達の関空行きのエミレーツ航空は午前2時50分ドバイ発なので随分と時間がある。しかしこの空港は長時間待ちのトランジット客を飽きさせない程施設が良く整っている。ショッピングの数も半端ではない。学生二人は盛んに買い物を楽しんでいる。シンガポールのチャンギ空港も素晴らしいがこのドバイ空港にはかなわない。トランジット客用のホテルも完備しスポーツクラブもサウナもスチームバスもシャワーも完備している。それにしても日本の空港の貧しさは何故だろうか。成田空港などトランジット客にとっては待合室も陰鬱で長時間待つ人には地獄だ。成田のトランジットを避ける人が多いのは当然だ。ますます日本の空港はアジアの他の空港から遅れをとってしまっている。
さてこのドバイ空港のシャワーは日本円にして千円弱。シャワーを浴びる。今日一日シリア南部を走り回ったので熱いシャワーが気持ち良い。午前2時50分ドバイ発。機内は満席。


7月10日

午後5時半関西空港着。あわただしく荷物を受け取り、午後6時40分発の羽田行きのJALに飛び乗る。
学生二人と別れ、車で一路事務所へ向かう。

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