出張日記

2005年


9月29日

成田10時半発、ウィーン15時半着。ウィーンからバクーへ向かうのは21時発なので5時間以上の待ち時間がある。
空港内でショッピング。TUMIのPassport、財布、カード、航空券が入る皮製のホールダーを購入する。その後オーストリア空港のラウンジで休憩。
今回の旅の目的はアゼルバイジャンのバクーでワークショップとシンポジウムを行うことである。バクーはカスピ海の西側から突き出した半島の突端にある。19世紀の石油発掘により欧米の資本が多く投入されてきた。カスピ海を見るのは1977年に南のイラン側海岸を訪れて以来である。
ワークショップの責任者なので早めに入ることになった。学生の構成は日本から4名、中国から3名、アゼルバイジャンから20名程。課題のテーマはアゼルバイジャン側で用意している。既に日本の学生は26日に入り、27日から作業に入っているはずだ。ラウンジのソファで一眠りした後、21時発バクー行きのオーストリア航空に乗る。飛行機の中では良く眠れた。ウィーンとバクーには3時間の時差がある。


9月29日

バクーまでは4時間のフライト。つまり現地時間で午前4時着。
空港でビザを取る。50US$。
アゼルバイジャン大学側が迎えに来てくれていた。副学部長と英語の良くできる学生ファリド君。空港で両替をした後迎えのバスで市内へ。結局ホテルに着いたのは6時前。



10時からワークショップのオープニングがあるとのことだが午後2時まで延期してもらい、午前中はホテルで就寝。眠りから覚めて午後1時に大学へ。昼食後オープニング。現地のテレビ局や新聞社が取材に来ていた。
敷地は三つ用意されていた。全て世界遺産に登録されているオールド・シティの中である。このオールド・シティは紀元後一世紀くらいから作られ始めた市壁によって囲まれている。



内部は建て込んでいて迷路のような細い道が入り組んでいる。これは外敵の侵入に対する防御目的と、もう1つの理由はこの街がいつもカスピ海からの強い風にさらされている事による。バクーの語源は風の街から来ているとか。



オールド・シティ内には宮殿がある。かつてここを治めたシルヴァン・シャフ・ハーン一族が住んだ場所である。その前には大きな空地があり、その空地は市街地、市壁に囲まれている。この広場をどう利用するかが大きなテーマである。ここは三つの敷地の一つでSite Bと名付けられている。
最初にこのSite Bのチームを訪れて驚いたのは皆が周囲の環境や条件に構うことなく単体の建築を、それもややけばけばしいものをデザインして空地にポンと置こうとすることだ。
周囲との調和や条件への適合などまったくお構いなし。周囲の条件をよく読み分析をし、問題を抽出し、その解決法を提案するという進め方を指導する。
Site Aは市壁の東門から入った幅30m、長さ100m程の広場がある。そこは現在駐車場になっていてその両側の建物も荒れ果てている。門から入った奥正面の古い建物はなかなか良い。そこに何を提案するか学生と討論する。古くて良いものを極力残し、そこに新しいものをどう加えていくかがテーマとなる。



Site Cはカスピ海に面したメイドン・タワーと呼ばれる不思議な形をした塔を中心とした一帯である。足元回りには古い遺跡が発掘され、近くにはハマーム(アラブ式風呂)やキャラバンンサライもあるという面白い敷地である。ここで何か問題になっているか議論をするが、なかなかテーマが絞れない。とりあえず明日以降の議題とする。 5時半に打合せを終え、帰途オールド・シティに立ち寄り三つの敷地を見て回る。オールド・シティは思ったよりも小さい。
そのままカスピ海に面したバクーの海岸プロムナードを歩く。夕景のカスピ海はなかなか美しい。ここは広大な公園になっている。公園には様々な野外カフェや野外レストランが点在している。そのうちの一軒で夕食。シシケバブが美味しかった。後々このケバブはバクーのあちこちで食することになるが、このレストランが一番美味しかった。



特にラム肉がうまい。かつて中近東に滞在した時(1977年にはカタール、ドーハに8ヶ月、1986年にはクウェートに5ヶ月)羊肉ばかり食べていた。羊肉の嫌いな人は中東には滞在できない。豚はイスラムでご法度だし、ビーフはヒンドゥーのインド人が食べられないので残るのはチキンと羊肉しかないのである。羊の肉を食べ続けるとそのにおいが体にしみ込んでしまう。かつて中東滞在後、日本に戻り、自宅の風呂やトイレが羊くさいと家族に嫌がられたものだ。
夕食を済ませた後ホテルのカフェでチャイ(茶)を飲む。


9月30日

起床後2階のレストランで朝食。北京の清華大学のザンミン先生に会う。他に中国の様々な地域からの先生方も到着していた。10時に大学のバスが迎えに来る。11時大学へ。TeamA、TeamB、TeamCのステューディオをザンミン、原尚氏と回る。TeamAは昨日の打合せの結果からOLD AND NEWというコンセプトを引き出していた。この地域に残る歴史的建築物や城壁に新しいものを付加しながらいかに効果的に古いものを残していくか、そしてどのように新しい機能を加えていくかという分かりやすいテーマ設定である。
TeamBは空地に単体の建物を作ることはあきらめ、昨日のディスカッションで我々が勧めた広場を考え始めている。この迷路のような街の中の広場的空間は貴重なものなのだ。しかし広場のデザインが良くない。やたらと曲線を多用する。周囲に曲線は無いので直線でまず考えることを指導するが、曲線の方が楽しいデザインができると主張してゆずらない。議論は平行線。
TeamCはさらに困ったものだ。指導教授のリーダーシップが無いので全員がバラバラになってしまっている。全く方針も出ていない。困ったことにはせっかくのカスピ海へ開いた外部空間を生かさず、そこに過剰な造形物を作ってしまっている。ここは塔の足元に遺産が点在しているのでそれらを守りながら海岸に面した空地をうまく利用することを勧める。旧共産圏の国々の建築に言えることだが、周囲の条件を読みながら調和させ、開発していくという方法をとらない。共産主義が伝統や、歴史、文化を基本的に尊重しないことと関連しているのだろうか。いつでもモニュメンタルでややデザイン過剰と言えるものを提案しがちだ。その点最近の中国は随分と変わってきた。文化大革命の苦い経験が生きているのだろう。
その後中国と日本の学生と再びA、B、C、の敷地を見にオールド・シティへ。それぞれの敷地でdiscussしながら条件を整理していく。キャラバン・サライのカフェでチャイを飲む。しばし談笑。ジャムを入れると美味しい。学生は大学へ戻り、我々は一旦ホテルへ戻り休憩。再び夕方6時に大学のバスが迎えに来て大学でそれぞれのチームとワーキングを行う。ホテルに戻り、部屋で新建築11月号の原稿を書く。


10月1日

今日は5階のレストランで朝食。しかし大学側の手配が悪く、何も出てこない。いくら文句を言っても知らん顔をしている。この辺はまだまだ共産主義の遺物を感じる。僕が大学へ抗議の電話をすると大学からホテルに電話があったらしくあわただしく朝食が出てくる。
朝食後中国の先生方と海岸プロムナードへ。全員でクルージングに乗る。約30分で日本円の50円程度。カスピ海側から見るバクー市は両側に岬が飛び出した天然の良港。オールド・シティも良く見える。風は相当に強いので波も荒い。船酔いしそうだ。



クルージングを終えた後、オールド・シティのキャラバン・サライのレストランへ。



ヨーグルト風の酸味の強いスープが独特のものだった。大きなどんぶり程の茶碗にたっぷり入っている。かなりすっぱい。しかしケバブに良く合う。ここでかなりのんびりとビールとケバブとチャイを楽しむ。





その後ホテルへ戻る。午後4時半にバスが迎えに来る。午後5時からA、B、Cのチームそれぞれとワーキング、ディスカッション。
TeamAは中国の清華大学の学生が描いたパースがコンセプトを良く表しているのでそれを元に案をまとめるよう指導する。広場の両側にはオールドシティの主要な材料であるレンガを用いたファサードを提案し、既存の街並みに調和させながらそこに新しい要素としてのガラスボックスを様々なデザインではめ込んでいこうとする提案。広場のパターンもアゼルバイジャンの伝統的なものをモディファイしようとしている。よくできている。
TeamBは昨日に比べると大分方向性が出てきた。広場の半分を占める既存の森を残し、宮殿側の空地を、レベル差を利用しながら段々状の広場を作ろうとしている。広場を囲む城壁の内側に作られている不法占拠のようにも見える住居群も取り壊し、そこを敷地のレベル差をいかしながらステップ状に広場を作る。こうすれば宮殿側からもこの城壁がよく見えるようになる。
TeamCはどうもまとまりが悪い。海岸の空地をどのように生かすかがポイントなのだが問題を十分に把握できていない。やむなくアゼルバイジャン側と日中の学生の二つのチームに分けることを勧める。指導教授はコミュニケーションの問題のせいにしているが、TeamA、TeamBはうまくいっているのだ。やはりリーダーシップの不足。
夜8時くらいまで主に日中の学生とワーキングを行う。
その後ホテルに戻り、部屋で日本から持ってきた日本食を食べる。


10月2日

今日は本当に天気が良い。タクシーをチャーターしてアゼルバイジャンツアーに出る。北部の火を吹く大地で知られるマンマンデイやゾロアスター寺院、南部の古代の壁画で知られるコブスタンを回ることにする。
10時半にホテルを出て、17:00に戻る予定。清華大学のザンミン先生も含めて5人が乗り込む。街を抜けて車は一路北へ。一時間ほどすると途中大油田地帯を通る。



果てしなく続く広大な油田である。あちこちに油をくみ上げる機械が林立する。遠くから見るとそれらの機械はまるで一生懸命に手掘りをしているような人間にも見える。無数の機械群が広大な油田地帯に一斉に動いている姿はやはり異様で恐ささえ感じる。
そこを走りふけるとやがて目的の火を吹く大地に到着。地面から天然ガスが吹き出しているのだろう。激しい勢いで火は燃えている。近づくと相当熱い。夜はさぞかし美しいだろう。



皆で記念写真を撮る。そこから再び油田地帯を通り抜け、一路北へ向う。
俗称Fire Templeと呼ばれるゾロアスター寺院に到着。紀元前7世紀頃、イランに生まれたゾロアスター教はカスピ海の周囲の国々や遠くはインドまで広がり、イスラムが台頭するまでは西アジアの主要宗教だった。
大きな中庭の中心にある拝火寺院を中心に周囲を低層の建築群が囲む。





その中は個人用拝火教会や宿泊施設が入っている。かつては多くの信者で賑わっていたそうだ。しかしイスラムの侵攻と共に徐々に信者は減り、今はマイノリティになってしまった。
ゾロアスター教は光の神アフラマツダと暗黒の神アーリマンの戦いを信者が火をともすことにより光の神を助け、この世を暗黒の世界から守るという宗教でイランに始まる。中国にも伝わり、「けんきょう」と呼ばれる。



日本の密教や二月堂のお水取りなどはゾロアスター教の流れを汲むものと言われている。さすがに周囲の拝火教会はもはや使われていないが中庭中央の寺院の中央には火がともされている。
インドからきた女性が途中何度も火の中に何かをくべている。恐る恐る聞くと、親切に説明してくれた。彼女はケンブリッジ大学の教授だそうで拝火教会の中で祈りを続けている。拝火教の考え方ではこの世に五つの力が存在する。火・花・食物・水・におい。においというのがユニークである。そのためこの女性は火ににおいのきつい油を定期的にくべている。火を強めるのとにおいを出すのと一石二鳥という訳である。そのため教授に「あなた方も一緒にここでゆっくりとお祈りしなさい。リラックスできます。」と勧められる。
入口門の上に管理人小屋があるが、そこに60歳くらいの婦人がいて、チャイをごちそうしてくれた。親しくなると拝火寺院の屋根の四隅にある拝火塔にわざわざ火をつけてくれた。ここは夜来た方が素晴らしいだろう。
御礼を述べて車はバクーを抜けて市内で買ったシシケバブのロール巻きを車中で食べながら一路南下。一時間程でコブスタンに到着。
途中車の中から左手に見るカスピ海が圧巻だった。海上に油田基地があちこちに浮かぶように見える。スケールが圧倒的に巨大なのである。何か宇宙基地のようでもある。



コブスタンに着いたのは午後二時半。ここは岩がゴロゴロと積み重なったような山である。その岩肌に古代人が壁画を彫ったことで有名になった。しかし明らかに新しく彫り込まれたように見えるものもある。やや興ざめ。
そこから一気にバクー市内に戻る。途中カスピ海のきれいなビーチを見つけてカスピ海の水を口にしたり貝殻を拾って遊ぶ。バクーのホテルに戻ったのは午後5時。しばらくすると大学のバスが迎えに来る。午後6時から8時まで再び大学で明日の最終プレゼンテーションの打ち合せ。大体良くできているようだ。学生達は今夜は徹夜になりそうだ。その後市内のレストランへ行き、三宅理一氏、大内氏などと夕食。


10月3日

午前、大学の学長に先導されアゼルバイジャンの英雄や偉人が眠る国営墓地や1990年の革命で命を失った英雄墓地へ。現地のTV局やマスコミが取材に来ていた。しかし最も忙しいワークショッププレゼンテーション当日の午前中に我々tutorsが来るのはおかしい。これはあのしたたかな女性学長のポリティカル・プロパガンダ(政治的宣伝)なのだ。旧共産圏の国に特有なものだ。皆気が付いているが文句を言わず、黙々と従う。
そのまま大学へ。すると今度はとんでもない仰々しいオープニングセレモニーがセットされていた。これも同様に学長のポリティカル・プロパガンダ。こういうことで自らの力を誇示するのが共産主義的。アラブやアフリカの方がまだましなのだ。僕等は単に利用されているコマに過ぎない。昼食後学生によるワークショップの最終プレゼンテーション。Team A、B、Cともなかなか良かった。しかし又問題が起きた。最後のチームがまだ終了していないのに学長がプレゼンテーションを途中で打ち切り、市長に会いに行くと言うのだ。「代表だけ行けば良い。学生のプレゼンテーションの方が市長に会うことよりもはるかに重要だ。我々はバクーくんだりまで来たのだ」と抗議するが有無を言わさずバスに乗せられ連れ回される。学長は市長に得意満面で我々を紹介する。自分の力を誇示するために。
その後ホテルに戻り、夕方7時からメイドン塔近くのキャラバンサライのレストランで夕食会。民族舞踊やベリーダンスで盛り上がる。


10月4日

今日は各国のプレゼンテーターによるシンポジウム。しかし午前中又セレモニーが予定され、各個人のプレゼンテーションタイムは大幅に減らされ、何と一人十分とのこと。ポリティックのために大事なシンポジウムの時間が縮小されるのは本末転倒である。そのため韓国のキム氏と午前中オールドシティのラビリンス(迷路)の街を歩き回る。本当に入り組んでいて面白い。イエメンのシバームよりも複雑だ。
その後キャラバンサライのレストランで昼食。僕はホテルに戻るがキム氏はシンポジウム会場へ。ホテルで休憩。五時半頃キム氏がホテルに戻ってくる。彼が大学に着いた時、既にシンポジウムは終わり、市内のカーペットミュージアムに全員見学に出てしまったとのこと。19時から郊外のレストランで夕食会。
夕食会はややポリティカルで学長の挨拶が延々と続いた後、乾杯。唯一良かったのはワークショップに参加した学生全員に賞状をあげることができたこと。学生も相当頑張った。唯一の心残りはプレゼンテーションの時間が十分ではなかったこと。早めに引揚げホテルに戻る。それにしてもこのホテルはひどい。まずレセプションが無い。各階のエレベーターロビーに老婦人がいてキーを管理している。何か問題があってもこの婦人達は知らん顔。旧共産主義の典型的ホテル。ベッドメーキングもやらない。エレベーターはしょっちゅう故障でなかなか来ない。先日はエレベーターが途中で止まってしまい30分程閉じ込められた。恐怖の時間。しかもこれで一泊50ドルというから恐れいる。大学が値段を決めているというからホテルから利益を得ているのかもしれない。日本から持ってきたDVDを楽しむ。「フーテンの寅さんシリーズ」である。一瞬部屋に光が射したようだ。


10月5日

午前中締め切りの原稿を日本に送る。その後バクー駅へ。待ち合わせロビーがなかなか良かった。Departure Boardを見るとモスクワ、サンクトペテルブルグ、ウクライナのキエフ、グルジアのトビリシなどの目的地が見える。どの位時間がかかるのだろう。プラットフォームに出ると地方からの人達が様々な荷物を持ち列車を待っている。皆人懐っこく果物を沢山くれる。丁重に断って去る。
その後ホテルへ戻る。ロビーでチャイを飲んでいると突然停電。そういえば今まで停電しないのが不思議。海外からのシンポジウム参加者がいる間は無理をして停電をなくしていたのだろう。
夕方原尚さんと金沢工業大学の下川先生とダウンタウンへショッピングへ出る。目的はバクー市内の地図とキャビア。アラブのスークのような雰囲気の街の中を歩く。地図はすぐ手に入った。古いカメラや古い写真集、様々な物があって楽しい。キャビアは地下の食料品店街にあった。一個20ドルなのだが、日本で買うと4〜5万円はするものだ。現地の人から400グラム以上持ち出すと逮捕されると驚かされていたので四個を購入。ホテルへ戻り日本から持ってきた日本食品を加工して食べる。荷物をパッキング。明日の朝は5時発飛行機なので10時には眠りにつく。


10月6日

夜中の3時に大学側の人が迎えに来る。5時バクー発。何故にこんなに朝早いのだろう。旧共産国家には時々信じられない時間に離発着するフライトがある。不思議だ。時差の関係で朝6時ウィーン着。本来ならばウィーンを7時20分に発つ飛行機が、アムステルダム空港が濃霧のため3時間遅れで10時半発。正午着。
アムステルダム空港でホテルを探す。Hotel Schipol A4。不思議な名前だがA4は空港前を走っている高速道路。予約していたレンタカーを借り、原尚さんの運転でホテル探し。A4に面しているはずなのだがなかなか見つからない。やがて道路に真横にまたがっているレストランが見える。その左手にあるのが目指すホテルだった。やっとの思いでチェックイン。バクーのアゼルバイジャンホテルではお湯の温度が低すぎて、しかも汚れていてバスタブには入れなかったが、このホテルはきれいなのでお湯をバスタブにたっぷり入れて入浴を楽しむ。洗濯もする。さすがに昨夜あまり眠っていないので、そのまま眠りに入ってしまう。途中夜の10時半くらいに目が覚めるが又寝入ってしまう。


10月7日

今日はHilversumに行きDudokの建築ツアー。Dudokの作品は数多くHilversumに残るのだ。それを10ヶ所程回る予定。A4からハイウェーでHilversumへ。ここには1999年10月に来ている。前回も来た市役所をまず見学。市役所のホールで市民の結婚式が行なわれていた。日本では考えられないことだが。
天気が良いので前面の池に映る南面の立面が美しい。水平と垂直の対比。この市役所は塔が有名なのだが、よくよく見ていくと重ね合わされた水平線、垂直線の使い方が卓抜なのだ。これはこの建築全体に言えることだ。中庭と内部空間の対比も見応えがある。議会ホールの色の使い方も斬新だ。地下にDudoc Museumがあるのに気付く。残念ながら閉まっている。たまたま市役所の人が内部にいて特別に開いてくれた。そして親切にもパネルを一枚一枚説明し、模型も解説してくれる。Hilversumの人はDudokを誇りにしているのだ。助かったのはDudok Mapがあったことだ。Hilversum市内のDudokの建物を全てプロットしたものでこれには助けられた。
それに従って近くのレンブラント小学校へ行く。立面は紛れもないDudokのものだ。エントランスホールや階段周りの空間が良い。学校の人も親切で内部を案内してくれた。
そこから近くの屋外競技場を見に行く。屋外スタンドで中へは入れなかったが写真で見る有名な正面玄関は十分に見ることができた。修復が済んだようで真新しく見える。Dudokにしては過激で造形的である。全体にアール・デコのスタイルが踏襲されている。形は率直に面白かった。
そこから車で運河の管理小屋へ行く。赤レンガを積んだ小さなものだが、二つのボリュームの面を巧みにずらしたり構成を明快に見せていて前面の運河との対比が美しい。 近くのファブリティウス小学校を探すのは難しかった。大通りから住宅地へ入ったところに突然現れる。デ・スティール、アムステルダム派のオランダ表現主義に強く影響を受けたもので、大きな茅葺の屋根と白の木製の正方形に分割された窓の対比が美しい。
たまたま教員の人が出てくるところに出会い、内部を見せてもらうことが出来た。実はこれは1990年に火災で焼失したのだそうで、それをDudokの図面に従って完全に復元したものだと説明してくれた。Dudokはもともと市の営繕課の設計担当で、多くの作品が市役所時代に設計されたものである。特に集合住宅群を数多く手がけている。その中でもボスドリフトは有名でこの一体が全てDudokの設計になる。その一角にゲラニウム小学校もある。残念ながら塔部分は修復中でテントがかけられていて見えなかった。
その近くに斜面のレベル差を利用した公園のレストハウスがあった。上部の道路のレベルがこの建物の屋根になっている。Dudokにしては珍しく曲面を用いてややバロック的である。そのすぐ近くにはDudokの集合住宅でも傑作と言えるベドウィスがある。小さな広場をはさんで二つの棟が軸線上に対峙している。この外観は見るべきディテールが随所にちりばめられている。
市のはずれのベグラーフプラーツ墓地公園もDudokの作品である。案外これは知られていない。森の中に突然現れてくる。正面に中庭を持ちそれをコの字形のコロネード(列柱)が囲む。コロネードは全体を白を基調とした清楚なデザインである。コロネードの奥には葬祭室が控えている。葬祭場、軸線上には広大な庭園が斜面を上るように作られていてその両側に墓地が並ぶ。このランドスケープと建築の構成は見事である。この建築が何故あまり多く紹介されないのだろう。
ここでしばらく時間を過ごす内にあたりは暗くなってきた。Hilversumを後にして一路Amsterdamへ。アゼルバイジャンでもあまりうまいものに会えなかったので日本レストランへ行こうということになった。電話で予約したが、運河沿いに車を走らせるがなかなか目的地へ着けない。運河沿いのホテルヨーロッパが目印となる。やっとのことでたどり着く。レストランの名前はどん底。アムスで一番古い日本レストランとのこと。残念ながら味はあまり良くない。オランダはヨーロッパでも有数の料理のまずい所。オランダ人の舌には許せても日本人には許せない。それでも久しぶりの日本食。はり切って食べようとするが量が多すぎる。すき焼きを頼んだのだが全く別な料理。結局半分も食べず残してしまった。おまけに車に戻ると駐車違反。あらかじめコインで2時間駐車券を買っておいたのだがたった20分オーバーしたにも関わらず駐車違反のチケットを切られてしまった。今日はHilversumの市役所を含めて2度目。オランダの駐車違反は厳しい。ホテルに戻ってそのまま就寝。


10月8日

朝食後、ライデンに向かう。ライデンと言えばシーボルト。まっすぐライデン記念館に向かう。ここはシーボルトが日本を追放された後、オランダに戻った際、住みついた所。一階はミュージアムショップ、映像シアターになっている。二階、三階はシーボルトが日本滞在中に収集した様々な品々が陳列されている。食器や小間物、絵画、日常用品、植物の標本が数多く展示されている。江戸時代の日本の工芸、技術のレベルの高さにはただただ感激。精巧さ、デザインの斬新さ、センスの良さ、どれをとっても世界のどこにも見られないもの。有名なアジサイの押花も展示されていた。そこにアルファベットでOTAKSA(おたくさ)と表示されている。おたくさとはシーボルトの愛妻おたきさんに由来している。シーボルトはオランダでは結婚せず、再度日本に入国を許可された時おたきさん、娘おいねに再会している。このへんがオペラ「マダム・バタフライ」のピンカートンとは異なる所。
その後ライデンの町を歩く。そこから真っ直ぐデン・ハーグへ。最近OMAが設計した地下鉄の駅、地下駐車場を見学する。地下鉄のプラットフォームの床が木製のフローリングで仕上げられているのが新鮮だった。地上から降りてくるスロープが地下空間に浮遊しているのが面白い。
昨夜の夕食があまりにもまずかったのでベルギーのアントワープまで走る。ベルギーはヨーロッパでも随一のグルメの国だ。オランダ西部の人はお客様を接待するときはベルギーへ行くという話を聞いたことがある。アントワープはベルギーから見ればオランダとの国境に近い。かつてのフランドル地方である。オランダ語がまだ通じる所らしい。駅に行く。それ自身が堂々とした建築で、特に内部空間が圧巻である。ブリュッセルに行くと完全にフランス語で建築もエクトル・ギマールに代表されるようにアール・ヌーボーが花開いた場所でもある。街の中を歩き回る。夕食をアントワープでとる。流石にアントワープなら美味しいだろうと中華に入る。フランス、イギリスあたりだとSweet and sour soup(Soup Pekinoi:スープ・ペキノワ、仏語)がおすすめ。酸味と辛味がピリッと効いていてボリューム感もあり、具も豊富で美味しい。何故か日本でこのスープにはあたらない。他に数種類オーダー。味は悪くない。ロンドンの中華もいいがフロンス語圏の中華もおいしい。スペイン、イタリアの中華は最悪だ。フランスの中華はエレガントと言おうか甘味が効いてフランス風に洗練されている。食事を楽しんだ後一気にアントワープからアムステルダムに向けて走る。市内をスムーズに出ることができたので約二時間半程でHotel Schipaol A4に着くことができた。


10月9日

アムステルダム発10時25分。同じオーストリア航空でウィーン14時25分発


10月10日

8時半成田着
10時半から二時間程大学の研究室でゼミ。
午後二時半から夜遅くまで事務所に戻り打合せ。


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