出張日記

2009

3月16日

14時成田空港発。カイロ空港22時着。時差を考えると15時間。
23時ギザのホテルにチェックイン。



3月17日

7時30分ホテル発。
Papirus shopへ。ピラミッドの見えるレストランへ。
午後、ピラミッド着。内部はやめて外部を回る。

旧市街地シタデル内のモハメッド・アリ・モスクへ。外観はイスタンブールのミマール・シナン同様のスタイルのオスマン・トルコ様式。内部空間がユニーク。イスタンブールのハギア・ソフィアを模範にしたミマール・シナンの様式をベースにしながらも平面を9分割した中央の大きな正方形空間を作る4本の柱間にはそれぞれ大きなアーチがかかる。更に4つのアーチの頂部をつなぐようにドームが載っている。ドームの底部の円形とアーチによって作られる曲面三角形がペンンデンティブである。このメインドームを四方の脇から抑える半ドームの作り方がユニークである。



3月18日

ホテルを真夜中の午前2時半に出発。

4時45分にカイロ空港発。アスワン経由で7時にアブシンベル空港着。まっすぐアブシンベル神殿へ。この神殿はアスワン・ハイダムにより水中に埋没する危機があったが国連によりそこから250m程離れた高台に移された。しかし、現在では水面が上昇しその水位は神殿より数メートル下がった程である。その工事は今では伝説となっている。神殿正面にはこれを作ったラムセス?世の像が4体並ぶ。


本来は岩をくりぬいて作られたものであったがそのオリジナルの4体の像は正確に分割され、ここに移された。その内一体は頭部が崩れ落ちていたが、移された後も地面に落ちた頭部をそのまま復原しているのが面白い。4体の象の中央入口を入ると、内部にはラムセス?世の像が彫りこまれた列柱が左右に4本づつ立っている。その奥は回廊になっていて周囲の壁にはおびただしいレリーフが彫られている。

一番奥は4神の像が並ぶ部屋で2月22日と10月22日には入口からこの奥の空間まで朝日が入る。少し離れた所にラムセス?世の妻ネフェルタリを祭った神殿がある。


ラムセス?世に比べると小さい。これらの遺跡は、エジプトツアーの中でも最も人気のあるものだが、旧帝国ホテルが明治村に移されたような気がして感動は薄れる。背後に回ると分かるのだが、恐らく平地に移築した部分を組み立て、その上部に遺跡を守るべくコンクリート・ドームで覆い、そこに土盛りしたのだろう。それにしても元々岩をくりぬいた横穴にあった空間をそっくりそのまま移したのには驚かされる。

その後、飛行機で再びアスワンに戻り、アスワン・ハイダムを見学。このダムはナセル大統領がナイル河の氾濫をコントロール、農業用水の確保、電力の生産と、まさに良いことづくめの目的で作られた。しかし、ナイル河の氾濫が抑えられたおかげで、かつて上流から運ばれていた豊かな養分に富んだ土が運ばれることなく、しかも塩分が土壌にたまり、自然のバランスが崩れ、時には雨が降ったりと環境破壊問題が浮上している。自然のしっぺ返しである。自然をコントロールすることは出来ないのだ。悪しき教訓である。

そこから、ナイル河に行き今夜から宿泊する船に乗る。アスワンからルクソールまでナイル河を下るクルーズの旅である。船は3泊する。ナイル河の両側に接岸し遺跡群を眺めながらの旅である。

 

船にチェックインした後、ランチ。
ナイル河クルーズはアガサ・クリスティーのナイル殺人事件のようなクラッシクな船の旅を期待していたのでややがっかり。もっともアガサの時代の船旅は貴族のものだったので大きく異なるのはやむをえない。ランチ後、昔の石切場へ。ここには作りかけの巨大なオベリスクがある。途中でひび割れが入ったため、そのままに放置してある。それにしても巨大である。


イシス神殿はアブシンベル神殿同様、水没から守るため高台に移築された。その高台は現在小島になっているので船で渡る。渡し船は、神殿の背後から回るようにアプローチしていく。そのため全体の構成が分かりやすい。

 

その構成は正面アプローチ上の左右に列柱が走るがそれらは平行ではなく非対称で左の列柱が高い。列柱の奥に神殿正面が控えるが、よくよく見ると神殿と左右列柱によって作られる中央軸線がずれているのが分かる。この神殿はあらゆる面でエジプト神殿の中では、異質である。左右列柱が全く異なることと、正面神殿が中央軸線からはずれ、しかも列柱に対して角度が振られていること。


しかも神殿ファサードの壁は内側に傾いている。これは、倒壊を恐れてのことであるのは言うまでもないが。そのファサードは台形の形状をした壁が左右に一対威風堂々と立てられその間に門がある。壁面にはレリーフが彫られている。

 

中央の門を入るとそこは中庭になっていて再び左右一対の壁が正面に控えている。神殿に入る前室の天井が素晴らしい。ごっつい柱と柱頭と石の梁、天井。

 

全てが新しく新鮮だ。ギリシャよりも迫力がある。マイケル・グレイヴスがポストモダンで、エジプト神殿のデザインを取り入れた気持ちもわかる。神殿内部に次々と現れる壁と開口が作り出す空間も面白い。


再び外に出て横の立面を見る。今歩いてきた全体の構成で手に取るように分かる。


船で町へ戻りスーク。スークといってもアラビア半島のように市民の生活に密着したものではなく観光客相手でつまらないが、スパイス屋だけは面白い。





3月19日

起床すると船はKom Omboに接岸されていた。そこから歩いて神殿へ。これがナイル・クルージングのいい所だ。アラビア語でオリンポスの丘。プトレマイオス朝、ローマ帝国のアウグストゥス時代に完成。

この神殿は双子神殿で、中央軸線上、左右2つの神殿に分かれている。


そのため、大きな特徴は正面ファサードの中央軸線上に大きな柱が控えているのが大きな特徴である。


そのため正面から見ると偶数の4スパン(柱間)となっている。偶数スパンは神が通る中央軸線上に柱が立つので神殿建築ではタブーである。両側のスパンはやや中央部よりも小さくなっている。これは、ギリシャ神殿の手法だ。均質に柱を分割していくと両側のスパン(柱間)が実際よりも大きく見えてしまうという人間の錯覚を補正したものだ。中央柱の両端がこの2つの神殿への入口になっている。全体の構成を説明すると神殿の正面は、中庭になっていて列柱に囲まれている。中庭を囲む列柱はかつての高さを有しては、いないが、十分に空間はイメージできる。その列柱は二つの神殿を囲む二重の列柱回廊の外側の列柱に連続する。その回廊の外側は分厚い壁に囲まれている。外部から中庭へ入るには外壁正面の2つの門から入る。これらの左右の門から神殿奥中央の2つの至誠所へは、平行する二つの軸線上の通路を進んでいくことになる。この軸線上に直交するように幾重にも壁と列柱が立ちはだかる。そのため、軸線上に進む空間体験は劇的である。
壁と列柱が交互に現れるし、空間も劇的に変化する。
正面に立ちはだかる威圧的なファサード、それに従うように作られている左右手前に連なる回廊。左右どちらの入口を入っても軸線上に連続する開口を通して至聖室空間が見える。


正面ファサードは5本の柱から成るが、これらの列柱は奥に平行して更に二列作られている。つまり、左右に5本、前後に3列、合計15本の柱による前室を作り上げられている。

 

柱頭は上部に花が開いたようになり柱間に架けられている梁のスパンを小さくしている。


その上部にかかる梁はそのまま正面の外観に現れる。梁は前後に架けられ床は左右に架けられている。石の梁は大きさに限界があるので柱間はどうしても小さくなる。柱の直径と柱間のスペースはほぼ同じである。その第1列柱室を入るとそこは回廊に囲まれた至誠所の建物になっている。その空間は、左右に5本の柱、前後に2列の第2番目の列柱空間となっている。


柱は、より細くなり、天井高も小さくなるのは典型的なエジプト神殿の空間構成である。

この神殿の特徴は左右対称に作られた双子神殿が一体の建築として作られていることである。外部から中庭へ入る正面の門がすでに2つ作られその門から平行する2ケの至聖室へ至るアプローチ空間の構成は意匠的にも空間的にも興味がそそられる。


しかも内側と外側の二重の回廊が神殿を取り囲む建築様式は、神性を高める装置としても十分に興味を持たらせる。


再び船に戻り、休憩、ランチと楽しんでいる間、船はナイル河を下っている。途中、ナイル河畔が美しい。

 


やがて再びナイル西岸に接岸。そこから馬車に乗り、ホルス神殿へ。

ホルスとは神の名でハヤブサの事である。古代エジプト文明の中にはよく登場する神である。この神殿は巨大である。しかも嬉しい事に原形をよくとどめている。典型的なエジプト神殿の構成である。

手前に回廊に囲まれた中庭があり、正面に左右二つの巨大な壁からなるファサードが控える。


その中央を入りアプローチ軸線上に沿って進んでいくと列柱空間と壁を交互に空き進むことになる。中庭正面の入口を入ると最初の列柱室に入る。軸線方向に前後二列左右に3本ずつの列柱が配置された部屋である。天井まで20mもある合計12本の柱が林立する空間はなかなか経験したことのないものである。


10:1の比とすると直径は約2mであるが良く見ると足元にいく程小さくすぼまっている。これは恐らく人間の目線近く、つまり人間が身体的に把握できる床から2mほどの空間を出来るだけ広く見せようとする意図かもしれない。天井を見上げると作り方はかなりシンプルである事が分かる。柱頭は、はすの花が開いたように上部にいく程広がっている。

 

こうすれば柱と柱の間にかかる梁の寸法(距離)は小さくなる。奈良の建築の肘木と同じ考え方である。柱頭間に梁がかかる石の梁の幅は大きい。そこに石の床板がかかっている。

更に奥へ入ると柱の数が左右2本、前後3列、合計6本からなる列柱室になっている」。柱は手前の前室と比べるとかなり細く、部屋を囲む左右の壁も明らかに狭くなり天井もぐっと低くなる。


しかも床は微妙に前方に上っている。その為、高揚感が産まれ緊張は更に高まる。左右には部屋がしつらえられている。正面奥は至聖所の空間でその前面は礼拝室になっている。今来たアプローチ空間を振り返ると至聖所に近づくにつれ、床が徐々に上っているのに気づく。


しかも同時に天井高は徐々に低くなり左右の壁間の距離も小さくなり迫ってくる。気持ちを高ぶらせる演出である。これはヒットラーが自らの宮殿に用いた手法でもある。この至聖所を作る中央にある建物全体は回廊に囲まれている。回廊の外側壁は一面レリーフに覆われているが、この壁が神殿の外壁であり、神殿の内部と外部を分けている。高さは20mもあろうか。神殿の外壁は他の神殿同様に上昇するにつれて内側に傾いている。回廊は天井の高さに比べると幅は狭く緊張感のある空間である。


この回廊はほとんど機能性が感じられない。外部と縁を切って神性を高めるだけのものしか思えない。この建物でやはり圧巻なのは正面ファサードを作る門である。資料によると左右の幅79m、高さ36mと巨大である。中央の至聖所へのアプローチを挟むように左右2つの巨大な壁から成る。中央に柱頭の天端に合った、まぐさ状の梁がかかる。


内側に傾く壁といい、なかなかの意匠である。特記すべきは正面ファサード外壁上に左右2つずつ縦に縁取られた溝が掘り込まれていることである。この溝が単調になりがちなファサードにアクセントを与えている。門をくぐると中庭へ出る。正面のファサードは左右3本ずつの柱とそれを 縁取る額縁からなる。


列柱間の下半分には壁が設けられているが、この意匠が
卓越で円柱が地面まで見えるように柱間には独立壁が作られている。


柱と柱の間に独立壁が置かれているのは、アーティキュレーション(分節)である。柱頭の上には梁がそのまま現れ、梁間をつなぐ床板がこのファサード全体を縁取るフレームの上部材となる。床の上は外に突き出した石の部材が置かれその上部に外側に開く円形のコルニーチェが作られている。


ルネッサンス建築の原形がすでにここで作られている。それらの左右3本の柱は奥の列柱式の三列の内、一列目が露出したものである。内部の列柱がそのまま外観のファサードに現れる手法はなかなかのものである。しかし考えてみれば手前の列柱に囲まれた中庭、更にその奥の列柱群はモスクの構成そのものではないか。モスクの原形はエジプトの神殿にあったのだ。
船に戻り、デッキでビールを飲む。夕陽が美しい。





3月20日

船上ホテルを7時半に出発。王家の谷へ。


すさまじい数の観光バスが並んでいる。ラムセス?世の墓を見学。次の墓を見学。

 

ツタンカーメンの墓には入る気がしなかった。


平面、断面を見ても全く興味が湧かない。唯そこに、ツタンカーメンのミイラ、遺品特に黄金のマスクがあったという感慨はあっても、建築家にとっては面白くも見る気もしないのだ。そこで他の墓を見ることにした。墓の入口手前に平面図、断面図が表示されている。その中でkv14墓が建築的、空間的に面白いと思われたので入ると期待を裏切らなかった。


通路を少しずつ下がっていく。両側の壁にはレリーフがびっしり。かなり入って行くと左右に柱が3本並んだ列柱が前後に2列。これらの列柱は壁に囲まれているが驚くべきことは2列の列柱空間にはアーチ(全体としてヴォールトになっている)が架けられている。アーチはローマで初めて発明されたはずで、ローマ以前のギリシャ建築でも作られた例はない。しかし、ここエジプトのこのkv14の墓には、確かに作られている。その列柱室を進んで行くと、また左右3本の柱の列柱が2列同様に作られている。アーチが架けられているのも同様だ。しかし、ヴォールト天井の下中央には基壇そして、その上に石棺が置かれている。この空間はなかなか感動的である。ラムセス?世の墓は長い通路の奥に石棺室があるだけなのだが、このkv14にはヴォールト天井と列柱の空間、それも2室もあるので、はるかに見応えがあった。ランチ後、今回の旅で最も期待をしていたハトシェプスト葬祭殿(デル・エル・バハリ)へ。この建築は学生時代から好きな建築だ。背後に垂直にそそり立つ岩が取り囲む。


その下に段状に2層のテラスが作られている。各テラス及び二層目の床を支える地上部分の正面には左右に列柱が控える。


正面からは計3層の列柱が背後の岩壁と対比をなして正面に見えるのは圧巻である。テラスの中央に作られたスロープを上昇するにつれて現れてくる空間のシークエンスは迫力がある。

 

この中央軸線上のスロープを上り切り一番奥の3階テラスの列柱の中央を更に進んで行くと背後は列柱に囲まれた中庭がある。その正面には垂直な岩壁が立ちはだかる。


軸線上中央にその岩をくり抜いた、至聖所が作られている。垂直の岩壁とテラス、3層の列柱が作り出す空間はなかなかのものである。



3月21日

船舶ホテルを4時45分出発。

ナイル河を渡り西岸へ。気球でルクソールの日の出と王家の谷を見ようというプランである。5時20分には気球の発着場に着く。準備はどんどん進んでいた。次々と舞い上がる。

 

しかし、風が強いのでルクソール空港の管制塔から離陸許可が下りず結局飛べず。

ホテルに戻り、朝食後、チェックアウト。ナイルクルーズの3泊は良かった。とにかく3日間、カバンを動かさずにすむし、船がナイル河畔の遺跡に近いところに着岸し、そこから遺跡見学。食事は全て船の中。遺跡を見た後、船に戻り昼寝も出来る。

船を出てまず、カルナック神殿に向かう。
この神殿はエジプトでも最大の神殿である。全体を貫く軸上に第1から第5までの塔門がある。


第1の門は典型的エジプト神殿のそれで両側の巨大な壁がファサードを作る。第1の門を入ると巨大な中庭であるが面白いのは左右対称を崩すように中庭の中に左にセティ?世の神殿、右にラムセス?世の神殿が配置されている。左側のセティ?世の神殿は3つの礼拝堂が平行して置かれる。

 

全体があまりにも大きすぎるために右側の間口30m、奥行き75mのラムセス?世神殿は小さく見えてしまう程である。この神殿も十分に立派なもので巨大なカルナック神殿に入れ子のように作られている。軸線上に第2の門に入ると有名な巨大列柱空間に入る。構成が極めてダイナミックである。軸線上と列柱群室の中央を直角に真一文字に横切る通路が走る。軸線上通路の両側に左右に6本の巨大列柱が並ぶ。


背後の列柱に比べるとはるかに直径も大きく高い。柱頭も異なる。背後の列柱の柱頭ははすのつぼみをあらわしているそうだ。ここは元々屋内なので花が咲かないのだ。中央通路はもともと外部なのでその両側の列柱の柱頭はつぼみが開いたデザインになっている。


それにしても圧倒される。柱と柱の隙間を歩いている気になってくる。写真は何度も見ているが。ここまで巨大とは想像できなかった。ここでも柱の足元はすぼまっている。

  

柱の表面、周囲を取り囲む壁の表面にはレリーフがびっしりと彫り込まれている。


第3の門を過ぎると第4の門がすぐに現れるが第3の門と第4の門は壁になっているがそれらはさほど離れていないので当時は隙間のような空間だったに違いない。第4の門と第5の門の間も離れていないが左側にハトシェプト女王のオベリスクが作られている。


軸線上の最後にある神殿がある。このカルナック神殿の見所は何と言っても最初の列柱空間である。どの神殿にも列柱空間はあるが、ここのは本数、柱の太さ、高さとも群を抜いて大きい。かつてクレオパトラがハネムーンでナイル河を上りシーザーをここに案内したがそれはエジプトの偉大な歴史を見せるためだったと言われるくらい。圧倒的スケールを誇るが、これらの列柱群の空間を見せられたものは度肝を抜かれてしまうに違いない。とにかく、その中に立つとスケール感を失ってしまうのだ。


閉所恐怖症の人間であればそこにいることは不可能な程、柱群が襲いかかってくる。
これらの列柱空間を見るとギリシャ建築がエジプト建築から影響を受けていることは十分に考えられる。エジプト神殿の柱頭ははすのつぼみが閉じたものや開いたものしてデザインされている。それらがギリシャの柱頭のデザインに影響を与えたことは想像に難くない。


この列柱群の上には2階があったといわれている。カルナックの印象はとにかくでかい。それに比べると午後、回ったルクソール神殿は小振りである。と書くと誤解されてしまうがそれでもギリシャの神殿に比べたらはるかに大きい。ルクソール神殿の構成はエジプト神殿そのものであるが門の前面左右に2本のオベリスクが立っていた。現在は左側のもののみ残っているが、右側のものはフランスに持ち去られてしまった。パリのコンコルド広場のあの有名なオベリスクがそれである。


このルクソール神殿はナイル河に隣接しているのでフランスが持ち去るには好都合な場所であったろう。

左右2対の壁によって作られた門を入ると列柱に囲まれた中庭になっているはずが左側半分が埋め込まれてしまっている。

 

そのため軸線上の左側には壁がそそり立っている。外から見ると分かるのだが、実はこの壁の上にはモスクが建てられている。恐らくこの神殿が出来た後、1000年以上を経て、このモスクは建てられたのだろう。確かに既存の神殿の一部をモスクに利用してしまうという発想が実利的なイスラム的だ。しかし、流石にこの神殿の神のたたりを恐れたのかモスクへは正面の門から入らず外部の脇から階段で上るように作られている。正面の至誠所までは、両側に列柱が並ぶ。


午後4時45分、ルクソール空港発、午後5時55分、カイロ空港着。今回カイロ→アスワン→アブシンベル→アスワン、ルクソール→カイロと3回程エジプト航空国内線の飛行機に乗ったがいずれも定刻(それも1分位の誤差で)に出発するのには驚かされた。カイロ到着後バスに乗ったが空港からの渋滞がひどかった。ナイル河沿いのホテルSofitelへチェックイン。ホテルの部屋に付いているバルコニーを見る。ナイル河の夜景が素晴らしい。



3月22日

今日は夕方、日本に向けて出発するので、それまでの時間を利用してオプショナルツアーに参加。カイロ郊外のピラミッド群と見ようとするものだ。まず赤いピラミッドへ。ギザのピラミッドの四角錐の斜面の角度52度に比べてこのピラミッドは角度がやや緩やかになっている。


この地区一帯はミリタリーゾーンになっているので周囲は全くの砂漠でこのピラミッドだけが悠然と立っている風景はなかなかのもの。一緒に行った人達は建築の門外漢であるが、一様に感動していた。やはり、良いものは黙っていても分かるものなのである。

ただし、軍事基地に隣接しているので検問所からバスに軍関係の人物が乗り込んで来ていて監視が厳しくこのピラミッド以外は撮影禁止というものものしい警戒である。

そこからメンフィスへ。ここは、王朝の都があった所。
特に見るべきものはないがラムセス?世の巨像が展示してある。


この王は余程、建築や彫像が好きな人物であったらしくとにかくナイル河畔のあちこちに自らの像や神殿を多く作らせている。92歳まで生き子供を100人以上作ったというから大変な人物であったことには間違いない。最後にサッカラの段状ピラミッドを見に行く。これは確かに構造的に安定している。ギザに比べるとシャープさは著しく劣るがこれはこれで迫力がある。段状になっている分、より建築的でスケール感もつかみやすい。


それに比べるとギザはひたすら天を目指す四角錐の稜線の強さが極立ち、建築というよりはむしろオベリスクに近いような感覚を覚える。そうだ、ピラミッドとオベリスクは角度は違っても同じ四角錐のモニュメントなのだ。但し、ギザのピラミッド比べるとこのサッカラ段状ピラミッドは構築的で人間の手の痕跡が感じられる。一生懸命に作ったということが理解できる。その一角にかつての宮殿の壁が残っている。上部のユーニスにはコブラの像が連続して取り付けられている。


そこに上るとはるか遠くにギザの三大ピラミッドのシルエットが見える。それぞれのピラミッドの自立性を強調するためにそれぞれのピラミッド間は距離をもって建てられたのだろう。ギザの三大ピラミッドは親子三代のものなので、個人というよりは、王家を強調するために軸線上に連続するように建てられたに違いない。カイロ市内に戻る。途中、ハイ・ウェイの両側に集合住宅のビル工事現場が次々と現れる。工法は、いたって簡単で柱、梁、床をコンクリートで作り、壁と赤レンガで埋めていく。日本のように一気に完成するという作り方はせず、予算に合わせて作っていく。最終的にはレンガの上にモルタルを塗り、塗装すると完成なのだが、全て完成した建物は少ない。最上部は柱が建ったまま、それも鉄筋がむき出しのまま、次の工事を待っているような光景が林立しているのが面白い。赤レンガむき出しのまま、外装をしないまま、しかも上部は工事中の状態でも人々は住んでいる。これは本当の意味でメタボリズムである。典型的なものは1階、2階あたりまでは装飾が終わり、その上は、モルタルだけ、更に上に行くと赤レンガむき出し。その上は柱と梁だけでしかも柱が継ぎ手の鉄筋むき出しのまま樹立しているものである。


恐らくエレベーターはなく、しかも下から赤レンガの壁とインフラが出来たところで住み始めるといった具合だ。やがて、ナイル河沿いに車を走らせる。ナイル河に浮かぶ船上レストランで昼食をとり、そのままカイロ空港へ。カイロ空港発18時。



3月23日

成田空港正午着。行きは、15時間かかったのに帰りはわずか11時間。


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